としよりのお祖父さんと孫(KHM78)

 

 むかし昔、あるところに石みたようにとしをとったおじいさんがありました。おじいさんは、目はかすんでしまい、耳はつんぼになって、膝は、ぶるぶるふるえていました。おじいさんは、食卓にすわっても、さじをしっかりもっていられないで、スープを食卓布の上にこぼしますし、いちど口に入れたものも逆もどりして流れでるようなありさまでした。

 おじいさんのむすこと、むすこのおかみさんは、それを見ると、胸がわるくなりました。そんなわけで、おおどしよりのお祖父さんは、とうとう、ストーブのうしろのすみっこへすわらされることになりましたし、むすこ夫婦は、おじいさんの食べるものを、素焼きのせともののお皿へ盛りきりにして、おまけにおなかいっぱいたべさせることもしませんでした。おじいさんはふさぎこんで、おぜんのほうをながめました。おじいさんの目は、うるみました。

 あるときのこと、おじいさんのぶるぶるふるえている手は、お皿をしっかりもってることができず、お皿はゆかへ落ちて、こなみじんにこわれました。わかいおかみさんは、こごとを言いましたが、おじいさんはなんにも言わずに、ためいきをつくばかりでした。

 おかみさんは、銅貨二つ三つで、おじいさんに木の皿を買ってやって、それからは、おじいさんはそのお皿で食べることにきめられました。

 三人がこんなふうに陣どっているとき、四歳になる孫は、ゆかの上で、しきりに小さな板きれをあつめています。

 「なにをしているの?」と、おとうさんが、きいてみました。

 「お木鉢をこしらえているの」と男の子が返事をしました、「ぼうやが大きくなったら、このお木鉢でおとうちゃんとおかあちゃんにたべさせたげる」

 これを聞くと、夫婦は、ちょっとのあいだ顔を見あわせていましたが、とうとう泣き出しました。そして、すぐ、としよりのお祖父さんを食卓へつれてきて、それからは、しょっちゅういっしょにたべさせ、おじいさんがちっとぐらい何かこぼしても、なんとも言いませんでした。

 

 これはグリム童話の中に本当にあるお話です。読んだだけでドキッとさせられます。

 この童話を読むと四つのキーワードが出てきます。

   @おじいさんの老化

A虐待

B孫(トリックスター)の活躍

C改心

 これらのキーワードをもとにこの童話を分析しましょう。

 

@おじいさんの老化

 おじいさんは年を取り老化現象に悩まされている。目はかすみ、耳は遠くなり、手足はぶるぶる震え、一度口にいれたものを出してしまう。人間は誰でも年を取り、老化する。一国の大統領も、我々のような一般人も年を取れば必ず老化する。「誰でも」というのは専門用語で「普遍性」と呼ぶ。普遍性とは辞書によれば「すべてに共通すること」となっている。「年を取る、若くならない」ということを専門用語で「不可逆性」と呼ぶ。不可逆性とは辞書によれば「もとの状態にもどれないこと」となっている。どんなにかっこよかった男性も年を取れば顔にしわができ、どんなにきれいな女性も年を取ればしみがでる。この童話の主人公であるおじいさんもその例にもれず、年を取り老化した。目はかすみ、耳は遠くなり、手足はぶるぶる震え、一度口に入れたものを出してしまう。ごくごく普通のおじいさんである。これは人間のありのままの姿である。

 

A虐待

 そんなおじいさんを、おとうさんとおかあさんは虐待する。おじいさんは食事を上手く取れないにもかかわらず介護をしない。手間をかけないようにするため、食事を素焼きのせともののお皿へもりきりにする。食事量を一方的に少なくする。一度皿を割ったら、今度は割れないように、木の皿に替える。座る場所をストーブの後ろのすみっこへ座らされる。このような虐待が行われた。

 食事を上手く取れないにもかかわらず食事介護をしないのは無視にあたる。本当は食事介護しなければならないことは分かっているのに、介護をしたくない。そんな気持ちから無視という行動をとる。無視とは自分のイヤなことから遠ざかることによって、関係を持たないことである。適応規制の一種である。適応規制とは自分の心の安定のために起こる心のメカニズムである。

 食事を素焼きのせともののお皿へもりきりにする。おかあさんは自分の手間をかけないようにするためにこのようにした。ようは一つのお皿にごはん、おかず、つけもの等を一緒に入れてしまったのである。これはグリム童話(ドイツ)であるからパンやおかずになるのではないか。童話の中では言及していないがスープ(みそ汁)も一緒に入れてしまったことも想像できる。こんな食事はとりたくないというのが普通の感想であろう。普通は、主食、副食等を器によってわける。同じ器に盛ったらぐちゃぐちゃになってしまい食べる気がしなくなる。ごはんとみそ汁を一緒に盛る食事のことを「ねこまんま」と呼ぶが、解釈としては同じことであろう。要はおとうさんとおかあさんはおじいさんのことを同じ人間と思っていないのであろう。

 食事を少なくするという虐待もとっっている。人間は食事(エネルギー)をしっかりと取らないと活動することが出来ない。食事を抑えることによって、おじいさんの人間生活を押さえ込もうということである。

 おかあさんは皿をせとものから木鉢にかえた。割れないようにするためだ。木鉢は落とした程度では割れない。ことわざに「形あるものは必ず壊れる」というものがあるが、これに通じていると思う。木鉢は割れないと仮定すると、木鉢は「形あるもの」ではなくなる。そしてその木鉢を使用するおじいさんは人間ではないと意味づけをしているのではないか。だって人間は必ず壊れて(死)しまうからだ。おかあさんはおじいさんを心理的に殺してしまったのだ。

 座る場所を変える虐待もしている。場所はストーブのうしろのすみっこである。冬では寒いだろう。また家族から離れたところで食事をすることで心も寒くなるだろう。家族から阻害され、やはりここでも心理的に殺されてしまっている。

 これらの虐待はおとうさんとおかあさんの不安の顕れではないだろうか。今後年を取り、老化すると自分達はどうなるだろうと考えたとき、その目の前に、おじいさんがいる。自分達は将来このようになるのだと確信させられる。今まで自在に生きてきたのだが(自立)、これからは、他人の手を借りなければ生活できなくなる。こういった不安を解消するために適応規制が取られ、その具体的な活動としてこのような虐待が起こったのだと考えられる。人間のありのままを受け入れることが出来ない(ありのままを受け入れるだけの自我が発達していない)、老化したくない気持ちの反動の結果であると思う。

 

B孫(トリックスター)の活躍

 孫はそんな父母の姿を見て、小さな板きれを集めて遊んでいる。板きれで木鉢を作り、大きくなったら父母に木鉢で食事を食べさせようと考えている。意図して行った行動ではなく、本人の単なる遊びの一つである。孫はまだ四歳であり、大人ほど自我が発達していない。いわば天衣無縫の状態である。他のグリム童話ではよく小人が登場する。雪白姫の七人の小人もそうである。小人は自由や無邪気といった概念の象徴として解釈される。この童話に登場する孫も解釈的には同じところであろう。心理学的には孫も小人も同じ存在であると言える。このような存在をトリックスターと呼ぶ。童話の主人公がピンチになったときに現れ、助けてくれる。助ける方法は多種ある。肉体を使って直接助ける方法、ヒントを教えてくれる方法などなど。おなじように主人公を助けてくれる存在として老賢者がいる。老賢者と違うのは、小人は天衣無縫のまま助けるところである。というか小人から見れば助けていないのである。小人の言動から主人公が気付き、解決に向かうのである。孫もそうである。孫が板きれを集めていたのは単なる遊びである。ままごとと一緒である。孫からすれば意図はない。

 

C改心

 おとうさんとおかあさんは孫(両親から見れば子だが)の行動を見てハッとする。自分達の行動を振り返るきっかけになったのだ。ハッとすること自体、おとうさんとおかあさんに良心が残っている証拠である。一つの家族という密室の中で虐待が行われていた。しかも力が強いおとうさんとおかあさんが行えば、相乗効果でますますエスカレートする。このまま行けばもっと悲惨な結果になっていたことだろう。密室の中で超自我の力が弱まっていたが、孫(トリックスター)の言動一つで全てが好転した。孫のおかげで良心の力がよみがえり、最悪の事態を避けることが出来た。おじいさん、おとうさん、おかあさん共に孫に感謝していることだろう。

 

 以上、心理学的に解釈した。この童話は読んだだけでドキッとし、読む人の心に投げ込むものがある。あえて解釈など必要ないのかもしれない。だから結論は記述しない。これを読んだ貴方自身に、もうすでに結論が出ているのだから。

 


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