幸運なハンス

ハンスは7年間奉公したのちに家に戻ろうと思います。奉公先の主人は真面目に勤め上げたハンスに7年分の給金として頭ほどの大きさの金塊をくれました。金塊をぶら下げて故郷へ向かうハンスは、途中、馬に乗った男に会います。ハンスは、馬があれば道がはかどるのにと考えます。すると男が馬と金塊を取り換えてやろうかと言うのです。喜んでハンスはそうします。ハンスは馬に乗っていきますが、途中で振り落とされてしまいます。そのとき、馬をつかまえてくれた農夫は牝牛を引いていました。牝牛なら大人しいしミルクとバターをくれるのに、とハンスは思います。すると、農夫はハンスの馬と牝牛を取り換えてくれるのです。ハンスは、のんびり牝牛を連れて行きますが喉が渇いたのでミルクをしぼろうとすると、牝牛は怒ってハンスを蹴飛ばします。牝牛は年を取っていてもうミルクは出ないのでした。ちょうどそこへ豚を連れた肉屋が通りかかります。豚なら肉とソーセージが食べられるのに、とハンスがつぶやくと肉屋はハンスの牝牛と自分の豚を取り換えてくれると言います。ハンスは喜んで豚の綱を受け取りました。豚を連れて歩いていると白いガチョウを抱えた若者に出会います。ガチョウなら羽と肉がとれるとハンスは思い、若者に取り換えないかと持ち掛けます。若者は取り換えてくれました。そのうち、ハンスは鼻歌混じりに仕事をしている研師に出会います。ハンスは研師は景気がいいので陽気にしているのだなと思います。研師はガチョウと交換で研石をひとつ、おまけに道端の石をひとつくれました。ハンスは石を2つ持って満足して旅を続けます。その途中、泉で水を飲もうとしたとたん、石を2つとも泉に落としてしまいました。ハンスは思わず喜んでしまいます。重荷になっていた石がなくなって、なんと運がいいのでしょう。ハンスはよい気分で家路を急ぎ、お母さんの家に着きました。

 

この話の不思議さは、明らかにハンスが貧しくなっていき、文字通り尻貧の一途をたどっていくのに、ハンス自身は喜び、自分は運がいいと思うところにあります。もしこの物々交換の話が逆向きであったら、ひとつの出世物語になってわかりやすかったでしょう。ただこの話をさかさに読んでいくと最後のところで妙な具合になります。ハンスは頭ほどの金塊を主人に渡してからこれから7年間も奉公しなければならなくなります。

しかし、この奇妙さは7年間の7という数字(ラッキー7)と、昔は奉公というのは腕に技術をつける機会だったことを考え合わせると、それほど奇妙なことではありません。昔も自分に有利な交換をするのは得に決まっているという考え方がありましたが、もうひとつ、しっかりとした親方の元できちんと修行することが人間として一人前になる道だという考え方もあったのです。そうした考え方にたてば、たとえ金を払っても奉公したいという心意気は当然のことだったでしょう。福祉施設においても同じです。しっかりとした上司の元できちんと修行(仕事)することが福祉施設職員として一人前になる道です。

この物語はそのまま読めば出世物語ではなく、尻貧物語ですのでもう一つ解釈できます。ハンスは金持ち(金塊)から一文無しになってしまいました。ここで重要なことはハンスにとっては金塊とはあまり重要なことではなかったことです。一般的に多くの富を得ること(ハンスの場合は金塊)は幸せになれる一つの手段ですが、ハンスにはこの一般常識も通用しません。ハンスにはハンスの価値観があったのです。本当の価値とは自分自身で決めることですが、最近は自分自身で判断するよりも他者の評価(価値)に左右されがちです。ハンスのように自分固有の価値観(他者に左右されない価値観)を持つことは非常に大切なことです。福祉施設職員としては、「自分はこうしたい。」とか「このような処遇を行えば必ず良くなる。」とかいうように確固たる意思を持つことが大切です。

金塊から石に至る途中で、馬、牝牛、豚、ガチョウ、研石が出てきます。ハンスはそれぞれに対して、「馬があれば道がはかどるのに」、「牝牛なら大人しいしミルクとバターをくれるのに」、「豚なら肉とソーセージが食べられるのに」、「ガチョウなら羽と肉がとれるのに」、「研師は景気がいいので陽気にしているのだな」と考えます。全て自分一人の欲求です。しかし、ハンスは馬を手放すことにより、「楽をする」気持ちを捨て、牝牛や豚やガチョウを手放すことにより、「口唇欲求(フロイト理論)」を克服し、研石を落とすことにより、「金銭欲求」を克服しています。このように象徴として解釈すると、ハンスは金塊から石に至るまでに貴重な体験をし、成長しているのです。最後にハンスは石を2つともに落としてしまいます。石は象徴的には「死」と解釈される場合が多い。思考的柔軟性の無い人を「石頭」と呼びます。ハンスは石を落とすことによって「石頭」を捨て「思考的柔軟性」を手に入れたのです。

ハンスは、体験をすることにより「自分固有の価値観」、「思考的柔軟性」を手に入れました。一見矛盾しているように見えます。しかし以前に性格を決める要因として「遺伝か、環境か」という論争が起こりました。現在では「遺伝も、環境も影響する」という見解にいたっています。ハンスの場合も同じです。一見矛盾するような「自分固有の価値観も思考的柔軟性も」手に入れることにより、より高次のレベルに成長することが出来たのです。福祉施設職員としてハンスのように「自分固有の価値観」、「思考的柔軟性」を手に入れ、施設処遇に接するべきではないでしょうか。

 

文献 1994年 診療室にきた赤ずきん 大平 健 早川書房


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