魔法の喪失
つぼいわ(大会会長)
こびとと靴屋(グリム童話より)
むかしむかし、靴屋と女房は運に見放されてしまいました。どうがんばってもみても、ますます生活は苦しくなるばかりでした。ある日、靴屋は店にちっぽけな革が、たった一枚しか残っていないことを知りました。それでも靴屋は諦めず、革を丁寧に裁断し、一足の靴を縫いはじめました日が暮れたので仕事をやり掛けにしたまま、靴屋は女房の待つ家に夕食をとりに帰りました。
翌日、店に来てみると、一足の靴がおいてあるではありませんか。夜中に誰かがやってきて、仕事を仕上げていったのです。靴屋はそれを売り、その金でもう少し革を買い込みました。その日は新しい材料を裁断して過ごしました。夜になると、また仕事を中断して、女房の待つ家に帰って行きました。
翌朝、店にやってきた靴屋は数足の靴を発見しました。またもや謎の手伝いがやってきたのです。おまけに、新しい靴は最初の靴よりも更に美しい者でした。彼は靴を売り、もっとたくさんの革を手に仕入れ、それを丁寧に裁断すると、一晩、それを仕事場においておきました。翌日作業台の上には、何足ものブ−ツ、サンダル、靴がきれいに並べられていました。
こういうことがしばらく続きました。毎晩、靴屋は革を仕事場に残して行きます。すると毎朝、店には美しい靴が並んでいるのです。たちまち店は繁盛し、見事な靴を作るという評判が遠くまで広まりました。
クリスマスも近いある日、靴屋は女房にこう言いました。「おれたちを手伝ってくれてる人をつきとめて、お礼を言わなくちゃならんよ」女房も同意しました。その夜、二人は仕事場に隠れ、胸をドキドキさせながら待っていました。真夜中過ぎに歌声が聞こえてくると、二人のこびとが窓から飛び込んで来ました。こびとたちは素っ裸の素足で、陽気にはしゃいでいました。こびとたちはダンスをし、とんぼ返りをし、歌を歌いました。それから靴とブ−ツを作りはじめ、あっというまに完成させてしまったのです。こびとたちは部屋を踊り跳ねてから、月の光の中に消えて行きました。
靴屋と女房は自分の目が信じられませんでした。「こびとたちが手伝ってくれてたのか!」彼らは言いました。「お礼に何か贈り物をしなくちゃ!」こびとたちは二人とも裸だったし、季節は冬だったので、靴屋と女房は着るものを贈ることにしました。靴屋は毛皮を内側に張った小さなブ−ツを二足こさえました。女房のほうは温かいフワフワの上着とズボンを二着ずつ縫いました。
クリスマス・イヴ、夫婦は贈り物を仕事場に並べると、隠れて見守ることにしました。真夜中になると、二人のこびとたちが窓から飛び込んで来て、とまどったようにあたりを見回しました。縫う革もないし、道具も見当たらないのです。そのとき、こびとたちは贈り物を見つけました。
「うわあ!」一人のこびとが歓声をあげ、小さな靴を手にとってはいてみました。「ごらんよ!」もう一人が叫んで、上着に袖を通しました。どれもぴったりでした。こびとたちは互いの姿をうっとり眺めると、心から楽しそうにダンスをしてから、月光の中に消えて行きました。靴屋と女房は満足して、これまでになく幸せな思いで床につきました。
翌晩、こびとたちは現れませんでした。その次の夜も、次の夜も。「何か悪いことをしたのかなあ?」靴屋と女房は首をかしげあいました。でも、彼らは実際的な人間だったので、まもなく靴屋は仕事を再開しました。少し練習すると、靴屋はこびとに負けないほど美しい靴を作れるようになり、彼も女房も生涯、幸せに暮らしました。
我々がサッカ−・フットサル等をやっていく上で頭の中に入れておかなければならないことをこの童話は語っている。
この童話を簡単に外略すると次のようになる。@貧乏だが真面目な靴屋、A魔法(こびと)の獲得、B魔法(こびと)への贈り物、C魔法(こびと)の喪失、D生涯の幸せ。
この童話をサッカ−的観点から解釈していくこととする。
我々はプロ選手ではない。そのため、サッカ−は職業ではなく、余暇的活動である。我々の生活にはまず職(仕事)があり、その上に他のものが存在している。余暇的存在であるサッカ−もこの例から逸脱するものではない。生活においてサッカ−が基本となっている者はプロ選手ぐらいであろう。
サッカ−的観点から解釈すると言ったが、多少心理学的観点からも見ていくことにする。この童話におけるそれぞれ(靴屋・こびと等)は心理学的に見れば、象徴であると解釈できる。こびとと靴屋におけるそれぞれを、サッカ−的観点に立って、心理学的な象徴としてみると次のようになる。@登場人物の靴屋・・・・我々(サッカ−をこよなく愛する者たち)、A職業としての靴屋・・・・それぞれの職業、B魔法(こびと)・・・・サッカ−、C魔法(こびと)の獲得・・・・サッカ−を実施すること、D魔法(こびと)の喪失・・・・サッカ−をやめること。最も重要なことはこの童話に出てくる魔法とは我々におけるサッカ−を象徴していることである。
今回はD魔法の喪失に絞って話を進めていく。この童話に出てくるこびとは魔法を用いて靴を作ったのであって、こびとそのものが魔法的存在である。そしてこびとたちの最も顕著な特徴は、裸で自由気ままなことである。無邪気でいたずらな彼らは、社会的慣習や自意識という重荷をまだ負わされていない。こびとたちは子供時代や青年期の天衣無縫な精神を擬人化したものである。魔法のこびとが姿を消すことは、大人になり、遊びが仕事へ、無垢が責任へと場所を明け渡す避けがたい経験を象徴している。物語ではいくつかの細部によって、このテーマが補強されている。こびとたちは、靴屋と女房が衣服をプレゼントすると姿を消した。衣類は、社会的秩序や慣習的行動を表している。すなわち衣服を与えることによって、靴屋と女房は、こびとたちを社会生活に適応させようとしたのだ。私達がよく知っている鶴女房(鶴の恩返し)では、夫が「妻(鶴)の機織り」を見ることによって、妻を喪失した。すなわち夫の知識の獲得が魔法(鶴)の喪失につながった。しかし、「こびとと靴屋」においては、靴屋と女房は思いやりのある行動をとったにもかかわらず魔法を失ってしまった。魔法の喪失は倫理的な事柄ではなく、発達上の出来事だということが協調されている。それは、罰ではなく、たんに成長の結果であるということだ。魔法を失っても、靴屋は靴づくりに励む。この物語の真実、愉快ではないかも知れないが重要な真実が存在する。すなわち魔法の後には労働が待っているのだ。サッカー的観点からすればサッカーをやった後には必ず労働・仕事という現実が待っている。今日は天竜フットサルリーグに参加し、楽しい、それこそ魔法の国にいるようであるが、明日からはまた仕事をしなければならない。
ほとんどの大人は童話というと魔法や幸せな結末を連想するが、このような中年童話には愕然とするほど重い主張が含まれている。この童話では青年期の魔法の喪失というテーマが語られている。魔法の喪失をたわごととして無視し強引に物事の成就を願うことの愚かさを、この童話は警告している。一人の人間として、成長し、人生を全うするためにはサッカーという魔法をいつかは手放さなければならない。エリクソンの発達課題では成人前期・・・・親密性,成人中期・・・・生殖性,成人後期・・・・統合となっている。今日参加している選手のほとんどは独身であろう。今後成長し、エリクソンの発達課題を遂行していくにはサッカーはあまりいい存在とは言えない。ただ、我々はサッカーマンである。たしかにマクロ的視野に立ち一人の人間として成長するためにはサッカーという魔法を捨てなければならないが、もっとミクロ的視野に立つ、すなわちサッカー的観点に立てば、サッカーという魔法を手放してはいけない。魔法(サッカー)は一時的に我々を青年・少年期に移行するが、人間としての成長を阻害するものではない。それは靴屋の後の成功を見ると分かる。靴屋は魔法を喪失しても身を崩さなかった。心理的に解釈すれば、靴屋は成長の結果、魔法を喪失したのであって、靴屋自ら魔法を喪失したのではない。魔法は、発達上の出来事、成長の結果、喪失するのであって、自ら手放してはいけない。我々にすれば、自分からサッカーをやめるとは考えてはいけない。サッカーを喪失するときは、人間的に成長したときである。その時までは、サッカーという魔法を存分に使い、少年・青年期に戻っていたい。なぜなら我々は永遠の少年、サッカーマンだから。
参考文献 大人のための心理童話 心の危機に処方する16の物語 上
1995 アラン B チネン 訳 羽田詩津子 早川書房