機織り渕の大蛇

 

天竜には素敵な昔話がたくさんある。ふるさとものがたり天竜を開いてみると二俣地区、上阿多古地区、光明地区、下阿多古地区、竜川地区、熊地区の順で昔話が掲載されている。天竜文芸・・・・、竜・・・・、あ、竜川だ。そうだ、竜川地区の竜の昔話にスポットライトを当ててみよう。さすが“竜”川地区、竜にちなんだ昔話がいくつかある。今回はその中でも少し悲し気な竜の昔話について考察していきたいと思う。

 

機織り渕の大蛇

むかしむかしのこと。

竜川村の安蔵に、“蛇が池”という池があって、そこには大蛇が住んでいた。

しかしその池には、水が枯れつきる時期が迫っていた。

そこで大蛇は、ある夜こっそりと、横山川の、ある渕へ移っていった。その渕のそばには、水神森と呼ばれる森があって、水神さまのお堂があった。

 水神森のそば近くの渕に住むようになった大蛇は、夜ごと美しい娘に化けてお堂に入り、カッタン コットン と機を織った。

 カッタン コットン

  カッタン コットン

 きれいな機織りの音にさそわれて、村の若者たちが、一人、二人と水神堂をのぞきに行った。

「わあ、きれいな娘だ。」

「お姫様みてえだ。」

 若者たちは、びっくりした。今まで見たこともないような美しい娘が、夜中に一人で機を織っている。

 カッタン コットン

  カッタン コットン

 娘はかろやかな音をたてて、楽し気に機を織っていく。

「おい、どこの娘だ。」

「村の娘じゃないぞ。あれは・・・・・・。」

「そんじゃあ、どこの娘だ。」

 夜ごとに見物人の若者たちが増えていった。

 みんなは水神堂の木戸を、細目にそっとあけて、美しい娘に見とれ、

「あんな娘を、嫁っこにしたいもんだ。」

と、だれもが思うのであった。

 ところがある夜、一人の若者が、娘の本当の姿を見てしまった。

「わっ、竜、竜だー。」

 若者は肝をつぶさんばかりに驚いた。

 村中が騒然となった。

 それを知った娘は、美しい姿のままで、深い渕に身を沈めていった。

 それからは、夜ともなると渕の底から、カッタン コットンと、機織りの音が聞こえてくるようになった。

 それでだれいうとなく、この渕を『機織り渕』と呼ぶようになったということである。

 

 竜(大蛇)が主人公の昔話であり、前述した通り天竜や竜川と因縁めいたものを感じる。天竜には竜(大蛇)が登場する昔話が多数伝わっている。ふるさとものがたり天竜に掲載されている昔話としては袖が浦物語、瀬戸渕の水神様、釜淵の竜など、さらに絞って竜川地区には千草の七つ釜と竜神があり、分布範囲も広い。竜は水神であり、水を守る神様である。水が豊かな天竜は、昔から水と共に生きてきた。竜や竜神信仰については先行研究が多数あることからそちらに譲ることにし、機織り渕の大蛇について感じたことを述べさせていただく。

 筆者は大学時代に心理検査の一種であるTAT(Thematic Apperception Test、主題統覚検査、投影法)について学んだ。今回はTATの解釈技法を交えながら話を進めていく。TATについての詳述は避けるが、TATに用いる図版は全て危機的状況を表現している絵であり、危機的状況に対してどのように対処するかを見ることによって、個人的理解を深めるものである。機織り渕の大蛇にも「水が枯れつきる時期が迫っていた」等の危機的状況の記述がある。TATの解釈技法がきっと役立つに違いない。

 機織り渕の大蛇は、一般的には“機織り渕“という昔話として通っている。一般的にというのは・・・・、筆者は以前から天竜文芸に昔話を題材にして作品を投稿してきたが、その度に収録話数6万話を誇る日本昔話通観のお世話になってきた。しかし日本昔話通観には”機織り渕“は掲載されておらず、また日本昔話通観と同規模を誇る日本昔話大成にも掲載されておらず、昔話の学術的な観点からは分類されていない。とはいっても昔話をまとめた他の文献では”機織り渕“で通っているため、「一般的には”機織り渕”ということになる」、とさせていただく。

 そして“機織り渕”として通っている昔話には大方2種類ある。

「門和佐川にある渕で、昔は水底から竜宮の乙姫が機織る音が、ときどき聞こえた。ところが、心ない男が馬鍬をこの渕に投げ込んでから、音は全く聞こえなくなった。」(岐阜県益田郡)

「長い長い反物を織るように命じられた嫁が、その労苦にたえず、機とともにこの池に投じて死んだ。それ以来、そばを通る人は、地底から機を織る音を聞くことがあったという。」(静岡県庵原郡)

 一つ目の“機織り渕”は竜宮とつながっており、乙姫が機を織っているというものである。もともと機を織る音が聞こえていた。そして二つ目は労苦に耐えられず“身を投じた”ものである。機を織る音は身を投じてから聞こえ始めた。同じ“機織り渕”といってもかなり異なっている。機織り渕の大蛇では「深い渕に身を沈めていった。」、また身を沈めてから機を織る音が聞こえ始めたことから、前述の2種類の“機織り渕”と比較すると、機織り渕の大蛇は、後者の“機織り渕”に近いことが分かる。

 御託はこれくらいにして置き、「TATに用いる図版は全て危機的状況を表現している絵であり、危機的状況に対してどのように対処するかを見ることによって、個人的理解を深めるものである。」という観点を含め、論を進めることにしよう。

 各地に伝わる“機織り渕“を読んでいくと興味深いことが分かる。筆者が収集した範囲内ではあるが、”機織り渕“に竜(大蛇)が登場するのは機織り渕の大蛇のみということである。全国全ての”機織り渕“を網羅したわけではないが、これは非常に興味深い。他の”機織り渕“との比較から、機織り渕の大蛇にあっては竜(大蛇)の存在が非常に大きいことがわかる。

 そして機織り渕の大蛇には二つの大きな危機がある。一つは水が枯れつきる時期が迫っていたこと、もう一つは竜の姿を見られてしまったことである。これらを含めて機織り渕の大蛇を見ていこう。

冒頭、「“蛇が池”という池があって」とある。いかにも蛇が住んでいそうな池の名前である。池というのは、渕や海、森など、外からは中の様子を伺い知ることが難しく昔から神の領域とされてきた。そして神の領域としてふさわしく、「そこには大蛇が住んでいた。」とある。単なる蛇ではなく大蛇である。一般的に我々は神様に対して畏れ多いという感情を抱く。畏れ多いとは、近寄りがたい、厳しい、威圧的な、周囲を圧する、畏怖の念を起こさせるという意味である。“恐れ”多いという言葉もあるが、「畏れ多い」は「恐れ多い」よりも、より立場や身分の上の人に対しての敬意や畏怖の念を強く感じさせる言葉と言える。この畏れ多いという感情は大蛇の形になって表れている。単なる蛇ではなく大蛇なのだ。蛇の大きさで畏れ多さが表現されている。

そして水が枯れつきる時期。池は自我の大きさを語り、池の水が枯れつきるということは、自我の危機が迫っているということになる。自我という言葉は色々な意味で用いられるが、この場合は心的エネルギーとするのが適切であろう。この大蛇の心的エネルギーは低下していた。簡単に言えば弱っていたということになる。そして自我の再生を図るために横山川の、ある渕へ移っていった。このように大蛇が池を移ることは昔話においては珍しいことではない。下伊那郡浪合村(現阿智村)に伝わる「蛇出しヶ池」では、大蛇が「池では長い間世話になったが、この頃はわしの体が大きくなってこの池では棲みにくい。よって、峠の上へ新しく池を作り、明日はそちらへ越したいと思う。」と村人に言って池を移っていった。同じ下伊那郡浪合村(現阿智村)に伝わる「蛇峠の池」でも同様に「峠の家では長々ご厄介になりました。」と村人に言い大蛇が池を移っている。下伊那郡浪合村も竜川村安蔵も山深い土地である。池や川があるが、山深い土地であれば水が豊富とは言えない。一方蛇は水の神とも言われ、池や川、川の淵に住む。安蔵の大蛇が移った先には水神森と呼ばれる森があって、水神さまのお堂があった。水の神である大蛇は水神様と統合し自我の再生を図ろうとした。

自分に圧力をかける古い価値観に縛られることなく新しい価値を獲得していく。そうすることで自我の再生を図る。TATのカード2は新旧対比のテーマが潜在刺激の一つである。個人が旧い伝統というものを、自分にとって価値あるものとして見るのか、自分に圧力的に働くものとして見るのかなどが打診できる。下伊那郡の二つの昔話、「蛇出しヶ池」、「蛇峠の池」では、世話になったことや厄介になったことを告げて池を移っている。これらは旧いものに別れを告げて、次の価値あるものを求める行動をしている。旧い価値観からの独立のテーマといえるだろう。機織り渕の大蛇では「ある夜こっそりと、横山川の、ある渕へ移っていった」とあり、下伊那郡の二つの昔話とは少し様相が異なる。独立のテーマっぽくはない気がする。しかし大蛇は新しい価値観を求めて、他の“機織り渕”には見られない行動をとる。

水神森のそば近くの渕に住むようになった大蛇は、夜ごと美しい娘に化けてお堂に入り、カッタン コットンと機を織った。お堂に入るということはどのような意味を持つのだろうか。お堂とは神仏を祀った小さな建物である。このことからお堂とは子宮を意味し、大蛇は子宮へ回帰し自我の再生を図ろうとしたのだ。精神的に生まれ変わるということだろう。また水神さまのお堂にはしめ縄が飾ってあったと推測できる。しめ縄はからまっている雄と雌の蛇の象徴とする説もある。水神さまのお堂に入るということは村の若者との接触や竜への変化を示唆しているものと思われる。

水神さまの力を借り自我の再生を遂げた大蛇は美しい娘に化けた。昔話において大蛇が美しい娘に化けることは珍しくない。前述した蛇峠の池や下伊那郡阿南町に伝わる深見の池、岐阜県に伝わる昔話“嫁ヶ淵”でも同様に美しい娘に化けている。同じ蛇でも蛇婿入りという昔話のように男に化けることもあり、こういったことから、蛇に会う人間の性別によって蛇が性別を変えるという説もある。しかし機織り渕の大蛇における大蛇は水を司る水神であり、水は人間の命の源である。水神はユング心理学でいうところの太母(グレートマザー)に値する存在である。こういったことから、大蛇が美しい娘に化けるのは当然のことに感じる。

美しい娘に化けカッタンコットンと機を織ったとのことであるが、蛇が機を織ることは他の昔話にも伝えられている。春野町砂川に伝わる「かまんどのへび」である。『むかし砂川のかまんどという所に、蛇が住んでいましたが、それがしもくん沢に行きました。人々が留守になると機織をしたそうです。このへびは「ゆうごの葉」に塩をつつんでやるととてもよろこんだそうです。しょうがはへびがきらうので、しもくん沢では今でも作らないそうです。』かまんどのへびが人間に化けて機織りをしたとの記述はない。しかし蛇には手がなく、人間に化けないと機を織ることはできないことから人間に化けて機を織ったのだろう。そして人間もそれを知っていたように思われ、かまんどのへびは人間との距離が非常に近かったことが伺える。

そして蛇は生活するための技術をもっている。しかも人間としての技術を。前述した岐阜県に伝わる「嫁ヶ渕」という昔話では、嫁になった女が、川で大蛇の姿になり魚を獲り、夫に姿を見られた女が去っていった。いわゆる蛇女房に近い昔話ではあるが、夫にかわり漁をするという生活に直結する技術を持っていた。蛇は器用なのだ。よって機を織ることは造作もないことだ。

 話を機織り渕の大蛇に戻そう。美しい娘に化けた大蛇は水神堂で機を織った。大蛇は美しい娘になることで村の若者と新しい価値観である男女結合を求めた。この男女結合は子孫繁栄とも考えられるが、その生命力の強さから、蛇には豊穣のシンボルとしての側面もあり、ここでは五穀豊穣の意味の方が強いと思われる。山深い土地の食糧確保は常の課題であっただろう。豊穣のシンボルである大蛇と結合することで五穀豊穣を願ったと感じる。その後一人の若者が娘の本当の姿である竜を見てしまった。そして肝をつぶさんばかりに驚いた。男が見てはならない女性の暗い(あるいは穢れた)半面を見たことを意味している。女性の本性の発覚にはのぞき見が多い。美しい娘の姿も恐ろしい竜の姿も同一のものの両面である。表から見れば限りなく美しく、裏から見れば限りなくおぞましい。そしてこの瞬間、娘は大蛇から竜へと変化した。

 TATにも竜が登場する図版がある。カード11である。といっても明確な竜が登場するのではなく、多くの被験者が認知する竜状のゲシュタルトである。カード11をお見せすることは許されないため、読者に伝わらない部分が生じることをご容赦願いたい。ゲシュタルトとは、形態とか姿という意味であり、ここでは多くの被験者が竜と認知する絵が描かれていると解釈して差し支えない。また竜状のゲシュタルトは非常に曖昧に記載されており、認知が上手くいかないと、竜ではなく吊り橋、坂道、木などに見られることがある。また竜は架空の生き物であり、生きている竜を見たことがある人間はこの世にもあの世にもいないことから(たぶんですが)、カード11において、竜を認知するということは、被験者の頭の中に空想の世界が形づけられているということにもなるだろう。そして、この竜状のゲシュタルトを認知した被験者の多くは、竜に襲われるという物語を話すことになる。カード11の異世界を感じさせる雰囲気や竜の認知により恐怖を感じるためである。竜は人を襲うのだろうか?筆者が投稿した天竜文芸第8号『昔話「底なし池の弁天さま」の考察』において天竜に伝わる昔話にも「瀬戸渕の水神様」、「笛の好きな竜神さま」、「釜渕の竜」など竜が登場する昔話がある。いずれの昔話に登場する竜も大きな渕に住み、命の源となる水を守り、日照りなどの水不足から我々を守ってくれる。また、同じ天竜に伝わる昔話「日下部大じょうの大蛇退治と光明山」や「釜渕の大蛇退治」には人間を食べる大蛇が登場する。片や我々の命を守り、片や我々の命を奪う。蛇(竜)はその姿や昔話の言い伝えから、人間にはない超越的な力を宿していると信じられていた。余談であるが、前述の天竜の昔話では、我々の命を守るのは竜、命を奪うのは大蛇となっており、役割により明確に姿が異なることは非常に興味深い。』と記した。全国全ての昔話を調査したわけではないが、この地天竜(旧天竜市内)において竜は人を襲わないのだ。襲うのは大蛇である。機織り渕の大蛇においては、冒頭は大蛇であった主人公が、最後には竜に変化している。自我の危機に陥っていた大蛇が、水神森のお堂で自我の再生を図り、竜に変化したのだ。若者の恐怖心が「畏れ多い」大蛇から「より畏れ多い」竜へと変化させた。新しい価値への変化は大蛇にとって重要なことであり、大蛇ではなく竜であることが次なる結合へ向かうことが出来る。とはいうものの、竜を見た村の若者は大蛇の姿を見てはいない。村の若者にとっては竜しか認知していない。一つの昔話の中で大蛇が竜に変化するということから、人間から見たら大蛇も竜もそれほど違いはないのかも知れない。日本には大蛇といわれるような蛇は自然環境の中では生息していないと思われるが、蛇の形は大きくても小さくてもそれほど違いはない。しかし竜と蛇は形が違う。多くの日本人がイメージする竜は、TBS系列で放送されていた「まんが日本昔ばなし」のオープニングに登場する竜であろう。蛇とは異なり、手足があり、角が生えている。最も大きな違いは空を飛べることである。また竜のモチーフは鰐(ワニ)という説がある。たしかに鰐の胴体を長くし、角を生やせば、「まんが日本昔ばなし」の竜に近い。若い世代の方は「まんが日本昔ばなし」を知らない方も多いだろう。ドラゴンボールの神龍(ナメック星のポルンガや超神龍ではない)の方がイメージしやすいかもしれない。そして自我の危機を乗り越えるには大蛇ではなく竜を創造する必要があった。中国では権力の強大さを示すシンボルとして竜が創造されたが日本では様子が異なる。日本では竜が描かれた土器が井戸の遺跡から見つかった事例がある。井戸は水源であり、最も聖なる場所である。ということから日本において竜は聖なる動物として扱われていたことは想像に難くない。機織り渕の大蛇においては、大蛇(後の竜)は水神森のお堂で自我の再生を図ったことから、聖なる動物として扱われているといって良いだろう。

 話を戻すと、若者は竜に襲われたわけではない。竜が住む異世界と不意につながってしまったため恐怖を感じたのだろう。竜に恐怖を感じるのは昔話の登場人物もTATの被検者も同じである。竜に対するイメージとしては「食べられる」、「天変地異による自然の危機」、「自分ではコントロールできない恐怖」などである。

 「食べられる」という感情に対しては、『みんなは水神堂の木戸を、細目にそっとあけて、美しい娘に見とれ、「あんな娘を、嫁っこにしたいもんだ。」と、だれもが思うのであった。』と本文中に記載がある。機織りのことには目もくれず、美しい娘という容姿に見とれていたのは、一種の退行状態にあったのだろう。しかも一人の若者ではなく、村の多くの若者が。これは集団ヒステリー状態だったと言えるだろう。集団ヒステリー状態のため、正確な判断が出来ない。そして集団ヒステリーは娘にも転移した。細心の注意を払っていた娘にも集団ヒステリーによる油断が生じ、村の若者はふとした時に娘の本性を知った。理想の女性と考えていた娘が一転竜になり、理想とは反対の否定的な女性像として映った。否定的な女性像に変化した瞬間、飲み込まれる、食べられると考えたのだろう。有名な昔話、食わず女房にはこうした否定的な女性像が登場する。概略は以下の通り。あるところに妻帯していない男がいた。ある程度の財産を持ちながら「嫁を貰えば、食い扶持が増えるから」との理由で結婚しようとせず、「飯を食わず、良く働いてくれる者がいてくれれば嫁に迎えてもよい」と願っていた。すると、その望みどおりの女が現われて嫁になる。嫁は望みどおりに飯を全く食わず、しかも働き者であった。だが、不思議なことに米をはじめとした食糧の減り具合が激しくなる。「自分の見ていないところで飯を食っているのではないか」と怪しんだ男が仕事に出掛けるふりをして屋根裏に上り、留守中の嫁の挙動を探っていたところ、嫁が大量の飯を炊き、幾つもの握り飯を作っていた。そして嫁が髷をほどくと、頭頂部には大きな口がある。その口へ、握り飯を次から次へと放り込んでいた。嫁の正体が人外の魔物であることを知った男が離縁を申し出ると、嫁は本性(山姥など、本来の姿)に戻り、男をさらって山中の住処へ拉致しようとする。男は隙をついて逃走、菖蒲の生えた湿原に身をひそめることによって、追跡から逃れることが出来た。』

否定的な女性像としての竜の出現に対しどのように対処するのか。TATに戻るが、TATのカード11は人間の持つ、いわゆる生物的欲求(一次欲求)、食べる、飲む、呼吸するといった生きるための基本欲求の危機を剝き出しの形で賦活している。竜に対して積極的に戦っているのか、それとも襲われて抵抗しているのか、それとも生贄や供物を捧げて襲撃を防いでいるのか、などと区別される。被験者のパーソナリティが反映され、ときに竜と積極的に戦う話になることがある。とくに勇ましすぎる話になってしまった場合、現実を無視した強がりの性格であると判断される。西洋では竜と対決する昔話が多くある。しかしここ日本において竜と対決する昔話は見当たらない。竜は対決する相手ではないからである。機織り渕の大蛇もそうである。竜を見てしまった若者は竜と対決していない。その後は詳しく記載されていないが、若者は逃げたのだろう。若者をはじめ村人たちは竜に対して行動を起こしたわけではなかった。しかし事実を知った竜が自ら深い渕に身を沈めることで問題を解決した。プロセスの突然の停止である。完結に至る寸前における、プロセスの突然の停止によって引き起こされる美的感情。若い男が美しい女性に会う。そしてその女性の美しさが次々と語られ、話が完成に達するかと思われたとき、突然に男性の過ちによって悲劇を生む。このような昔話は沢山存在する。機織り渕の大蛇では、悲しく立ち去ってゆく美しい娘(竜)の姿によって、悲し気な昔話になるのである。竜を含め、昔話に登場する動物たちは自然を象徴している。そして人間は動物たちと接することで自分も自然の一部であることを知る。しかし人間が動物たちに興味を抱き、その知る働きが強くなればなるほど自らを自然と切り離さねばならない。機織り渕の大蛇では、娘に興味を抱いたが、思いもよらず娘の本性を知った時、自然(娘、竜)を切ることになる。若者はその場から逃げ、竜の存在を知った村が騒然となった。竜である娘はそれに抗うことができず、ただ立ち去ってゆく。つまり自然に帰るより仕方がないのである。このようなことは、見るなの座敷、鶴の恩返し、蛇女房など他の昔話でも同じである。

春野町教育委員会が編纂した周北伝説集には機織りの音に関して「水の神、若い水神のお祭におとめを奉仕させたことは古い宮ていの神事信仰にその源を発しています。それが次第に民間に広がっていったものです。こうして民間に伝承された信仰は時世の変化に伴ってそれぞれの土地の条件によって違った姿になって伝わってゆきました。やがて親たちは自分の娘を神に奉仕させることに不安を訴えるようにまで変形されたものもみられるようになりました。」と記されている。神に仕えて機を織ることに不安を感じていたのだ。神でなくとも、前述した静岡県庵原郡に伝わる機織り渕のように「長い長い反物を織るように命じられた嫁が、その労苦にたえず、機とともにこの池に投じて死んだ。それ以来、そばを通る人は、地底から機を織る音を聞くことがあったという。」と不安を感じていたのだ。その不安が渕の底からの機織りの音に通じている。仕事柄、幻聴、幻視、せん妄を目撃したことがある。このような症状が出たのは余命いくばくもない高齢者であったり、何らかの疾患を抱えた方であった。機織りの音を含めた幻聴も病気の一種ではあろうが、心理学的に解釈すれば防衛機制の一種ともいえる。死や病気に対する不安を、幻聴や幻視、せん妄を出現させることで心の安定を図ろうとしていると解釈できる。筆者が初めて対面したときは、こちらの方が驚いてしまったが、他者には解釈されにくい幻聴や幻視、せん妄まで出現させて死に物狂いで戦っていたのだろう。幻聴などを通じてカオス状態の心の中を窺がい知ることが出来る。機織り渕の大蛇における渕の底からの機織りの音は、生活に直面することとして水を支配出来ない不安や自然に対する不安を代弁し、また竜はいなくなってしまったが、水の神様として竜川村安蔵の地にいつまでも存在してほしいという相反する気持ちを代弁しているのだろう。このような自然に対する畏怖の念は自然界に普通に存在する蛇や同系の大蛇では到底受け止めることは出来ず、竜へと変化させる必要があったと思われる。竜が身を沈めることによって村人と精神的に結合した。大蛇ではなく、自然界には存在しえない聖なる動物としての竜の役割はそこにある。結果、機織り渕の大蛇として人々の心の中に現在も存在している。

 

ふるさとものがたり天竜 上阿多古草ぶえ会

日本昔話大成 関啓吾 角川書店

日本昔話通観 稲田浩二、小澤俊夫責任編集 同朋舎

周北伝説集 周智郡春野町教育委員会 周智郡春野町史編さん室

静岡県伝説昔話集 静岡県女子師範学校郷土史研究会編纂

たつやまの民話 二本松康宏・稲葉夏鈴・岡田真由子・小林由芽・玉置明子・中谷文音・毛利とわ

東海の伝説 第一法規出版

昔話と日本人の心 河合隼雄 岩波書店

昔話の深層 河合隼雄 福音館書店

龍の起源 荒川紘 紀伊國屋書店

竜神伝説 大庭祐輔 論創社

昔話・神話にみる蛇の役柄−知恵・生命・異性の象徴となる蛇− 近藤良樹

TATの世界 鈴木睦夫 誠信書房

TAT解釈の実際 安香 宏・藤田宗和 新曜社

TATアナリシス 坪内順子 垣内出版

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 


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