昔話「底なし池の弁天さま」の考察
我々は子供のころから浦島太郎や桃太郎などの昔話に慣れ親しんできた。昔話は、子供が読む幼稚なものだと考える人もいるが、多くの昔話が存在し、語り継がれていることを考えれば幼稚という言葉だけでは説明はつかない。臨床心理学者である河合隼雄は「昔話は自然現象を説明するための、低次元の物理学なのではなく、自然現象を体験したときの人間の心のなかに生じるはたらきをも不可分のものとして、それらを心の奥深く基礎づけるために、そのような話が生まれたと考えるのである」と言っている。昔話は子供に教訓を教えるためだけに存在するのではなく、他にも意味・意義が存在する。天竜にも独自の昔話が存在し、何かを伝えている。それはどういうものだろうか。今回は筆者にとって馴染み深い天竜の昔話をとりあげ、考察していきたいと考えている。
底なし池の弁天さま
むかしむかし、阿多古の里の西山に、大きな池があった。池はいつも青い水を満々とたたえて、底の深さも知れないほど・・・・。それでみんなはその池を「底なし池」と呼んでいた。この池はその昔、阿多古川の渕であったというが、なにしろ底が深くて、池の水は天竜川から諏訪湖にまで通じているという。
ところでこの底なし池には、弁天さまがおまつりされていた。そして、
「弁天さまはの、底なし池に住んでいるという大蛇をお供にしなすっているが、その大蛇は、春の彼岸になるとの、毎年諏訪湖へ水を飲みに行くんじゃそうじゃ。」
と、村の年寄りたちは、言い伝えていた。
ある日のこと、村の若者五郎七が、
「おーい、おっ母よー。おら、ちょっくら魚つりに行ってくるぞーい。」
と、言って、底なし池へ出かけて行った。
それはちょうど、春の彼岸のことであった。
「こんところ、だいぶぬくとくなったで、たくさん釣れるかもしれんぞ。」
五郎七は、一人うきうきと、池へやって来た。そして水際の石に腰をおろして、釣糸をたれた。そのとたん、
「あっ、引いた。」
五郎七はそう叫んで、素早く竿を上げた。
針には、大きな魚がくっついて、激しく体をくねらせていた。
「こりゃあ、ついてるぞ。」
五郎七は大喜びで、また糸をたれた。
とたんに、
「引いた。」
今度はもっと大きな魚であった。
「こりゃあいい、こりゃあいいぞー。」
五郎七は、もう夢中で糸をたれる。すると、どういう訳か、五郎七が糸をたれるたびに、魚はとびつくようにかかってくるのだ。
「おっ、また引いたぞ。」
五郎七がそういいながら、何度目かの竿を上げると、今度は見たこともない、きれいな魚がかかっていた。魚はきらりきらりと青く光って、体をふるわせていた。
「こりゃあ、けっこい魚だ。うまそうだぞ。」
五郎七は、意気揚々とひきあげていた。
やがて家に帰った五郎七は、
「おーい、おっ母、たくさん釣れたぞーい。」
するとおっ母は、中の一匹をつまんで、
「おやっ、この魚は・・・・。」
と言いながら、きらきらと青く光る魚を見ていたが、
「あっ、片目だ。」
と叫んで、言葉をのんだ。
「片目がどうした。」
と、五郎七。お父も飛んで来て、その青い魚を見ていたが、
「か、かた目だ。」
と大声を上げた。
「五郎七、急いで池へ返してこい。」
「どうしてだよ。」
五郎七は、ふくれっつらをして、
(こんなにけっこくて、うまそうな魚、逃がしてなんぞやるもんか。)
と思うのだった。お父は、そんな五郎七に、
「昔からな、弁天さまのお供の大蛇は、春の彼岸になると諏訪湖へ水を飲みに行くそうじゃ。」
「そんなこと、知ってらあ。」
「それでな、その留守の間は、片目の青い魚と、片目の大きな亀が、大蛇に変わって、弁天さまのお供をするそうじゃ。片目の魚と亀は神さまのおつかいというわけじゃぞ。さあ、五郎七、この魚、早く池へ返して来い。」
と、言って聞かせたが、
「やだね。こんなうまそうな魚。おら塩焼きにして、食ってやるだで。」
五郎七は、お父やおっ母のとめるのも聞かず、とうとう片目の魚を焼いて、むしゃむしゃと食べてしまった。
「ああ、うまかった。」
お父とおっ母は、肝をつぶした。
そして次の日、五郎七はまた底なし池へ、釣りに出かけて行った。きのうと同じ水際の、きのうと同じ石に腰掛けて、つり糸をたれた五郎七であったが、なぜか今日は、一匹の魚もかかってこなかった。
「ちぇっ。今日は何で釣れんずら・・・・。」
五郎七が一人言を言いながら、なおも糸をたれていると、急に池の水面に、ぶくぶくとあわが立って、大きな亀がのっそりと顔を出した。亀は五郎七を、きっ、とにらみつけている。しかもそれは、片目の亀・・・・。
「か、か、かた目の亀だー。」
五郎七は思わず声をあげて飛び上がったが、
「ばかやろー。片目が何だ。お前なんかがいるもんで、今日は、魚が何にも釣れんじゃねえか。お前なんか、どっか行っちまえー。」
五郎七はそう叫んで、持って来た弁当箱を、思いっきり亀に投げつけた。弁当箱は、ゴツンと亀に当たって、池へ沈んだ。亀は憎悪の目で五郎七をにらみつけていたが、やがてぶくぶくと、池の中に姿を消していった。
五郎七はぷんぷん怒りながら、家に帰って寝てしまった。
さて、翌朝のことである。底なし池のそばを通りかかった村人が、裸で池に浮かんでいる五郎七を見つけ、大さわぎとなった。
「罰が当たったんじゃ・・・・。片目の魚を食べた罰じゃ・・・・」
お父とおっ母は、そう言って泣き崩れた。
だが、それから何人もの村人たちが、池にはまって死んでいった。困った村人たちは、
「きっと、弁天さまのたたりじゃ。五郎七が、弁天さまのお供の魚を食っちまったもんで・・・・。神さまが怒ったんじゃ。」
「何とかしにゃあ・・・・。」
そこでみんなは相談して、弁天さまの祠を新しく立派なものに作りかえ、
「弁天さま、どうぞ許して下され。」
と、お願いをした。
そして春秋の彼岸には、池で魚をとることを禁じて、代わりに盛大なおまつりをするようになった。するとそれからは、池に落ちたり、おぼれたりする人は、一人もいなくなったという。
やがて長い年月が過ぎていくうちに、底なし池には、阿多古の山や川の土砂が入りこんで、池はついに田んぼとなった。
けれども、大蛇と片目の亀をお供にしたがえた弁天さまの祠は、今でも西山の底なし池の跡近くに、しっかりとおまつりされている。
天竜の中でも、下阿多古に伝わるこの昔話、下阿多古小学校では劇として発表会にも用いられたこともある割とメジャーな昔話である。筆者も小学生時代には、五郎七を演じたこともある。大人になり、改めて「底なし池の弁天さま」を読んだときに様々な疑問を感じた。単純に「禁止されていることは守れ」と教訓的なことを言いたいのか?それともこの昔話は我々にもっと別なことを伝えたいのか。科学、社会学など様々な学問的検証が検討できるが、今回は私が大学時代に学んだ臨床心理学を中心に考察したい。特に心理検査TAT(主題統覚検査 投影法)の解釈技法が、「底なし池の弁天さま」の考察に対し有効なツールになると思われる。TATそのものは個人的理解のための心理学的技法であるが、昔話をその地に暮らす人々の集合体としての物語だと仮定し解釈を試みれば、その地に暮らす人々の普遍的な理解が出来るものと思われる。このような理由により、TATの解釈技法を応用し考察していきたい。前置きはこれくらいにして、順を追って考察して行こう。
昔話の多くは、「むかしむかし、あるところに・・・・」という出だしで始まるのがポピュラーである。いつの時代の話か、場所も定かではないのが通例であるが、この物語は、時代はさておき、場所は特定されている。浜松市天竜区上野西山であり、現在も底なし池跡近くに祠が祀られている。昔話の場所が特定されているということは、物語の内容やメッセージは、より具体性を帯びており、我々に対して痛烈なメッセージを送ることになる。そのメッセージとは何だろうか?
「底なし池の弁天さま」の冒頭、底なし池とは「青い水を満々とたたえて、底の深さも知れないほど」との説明がある。また「池の水は天竜川から諏訪湖にまで通じている」とされ、その奥深さが更に強調されている。この昔話に登場する池だけでなく、海や山、森などは、外からは中の様子を窺い知ることは難しく、昔から神の領域とされてきた。この底なし池にも弁天さまが住んでおり、神の領域であることが明示されている。また天竜に伝わる他の昔話にも同様のものがある。阿多古の瀬戸渕は大変大きな渕で、昔から竜神の話が伝えられている。神の領域であれば我々人間の力が及ばない領域となり、この領域(底なし池)では、神である弁天さまの力が絶対的なものとなる。
弁天さまは弁財天(べんざいてん)とも言われ、仏教の守護神である天部の一つであり、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。それ故弁天さまは女性性の象徴である。女性性とは、肉体的な性別とは別に、心理的・精神的な部分における「女性らしさ」のことを指す。同様に男性性という概念もあり、「男性らしさ」のことを指す。一般的には、男性の方が男性性が強く、女性は女性性が強いが、どちらもひとりの人間の中に存在しており、男女問わず誰しもが持っている。また弁天さまは水神であり、底なし池に水を満々とたたえ、その豊富な水により、田畑が豊かになり、魚が豊富に取れる池を形作り、生を育む豊穣を司っている神である。そして弁天さまは大蛇をお供にしている。大蛇はその形から男根が想像され、男性性の象徴ともいえる。女性性の弁天さま、男性性の大蛇が対となっており、一つの形を形成している。
手足がない蛇の形は、人間やその他の哺乳類をはじめ、同じ爬虫類であるトカゲとも異なっている。その異様さから異世界を感じさせ、人間に恐怖感を覚えさせる。その恐怖感により、人間は蛇の背後に超越的なものや神秘的なものを感じる。その結果、大蛇や竜などが生まれたのではないかと思う。天竜に伝わる昔話にも「瀬戸渕の水神様」、「笛の好きな竜神さま」、「釜渕の竜」など、竜が登場する昔話がある。いずれの昔話に登場する竜も大きな渕に住み、命の源となる水を守り、日照りなどの水不足から我々を守ってくれる。また、同じ天竜に伝わる昔話「日下部大じょうの大蛇退治と光明山」や「釜渕の大蛇退治」には人間を食べる大蛇が登場する。片や我々の命を守り、片や我々の命を奪う。蛇(竜)はその姿や昔話の言い伝えから、人間にはない超越的な力を宿していると信じられていた。余談であるが、前述の天竜の昔話では、我々の命を守るのは竜、命を奪うのは大蛇となっており、役割により明確に姿が異なることは非常に興味深い。植物は秋には死んで春によみがえるが、蛇は脱皮することにより再生が行われる。脱皮をもって、植物同様永生を保つイメージがある。底なし池の大蛇も、春の彼岸になると諏訪湖へ水を飲みにいくということから、再生が行われていると思われる。また前述した「笛の好きな竜神さま」においては、病気になった竜神さまに対し、人間が笛を吹くことで病気が治癒した(再生した)とも伝えられている。これらのことにより、底なし池の大蛇には死と再生の機能があり、弁天さまと相互補完していると思われる。我々に豊穣をもたらす弁天さまと恐怖をもたらす大蛇が、言い換えれば、生を司る弁天さまと死を司る大蛇が底なし池を形成していることになる。生と死、これはこの世に生きる全ての宿命である。
五郎七は村の若者で、母親がいる。底なし池に魚つりに行く際、母親に声をかけている。また、五郎七は、釣りから帰ったときも、まず母親に報告している。このことから五郎七は女性性との結びつきが強いことを示している。現実世界における母親の存在に加えて、魚を与えてくれる弁天さまとの結びつきの強さも示している。
五郎七が魚釣りへ行ったのは、ちょうど春の彼岸のことであり、弁天さまのお供の大蛇がいない時期であった。常には弁天さまと大蛇は相互補完の関係にあるが、春の彼岸、秋の彼岸は相互補完関係はない状況である。大蛇が不在で、豊穣をもたらす弁天さまの機能が強くなったこの瞬間、五郎七が釣り糸をたれるたびに魚はとびつくようにかかってきた。
何度目かの竿を上げると、今度は見たこともない、きれいな魚がかかる。きらきら青く光る魚である。青は水の色。まさに底なし池の象徴ともいえる魚である。その後五郎七が家に帰り、母親に報告すると、母親はこの魚が片目(隻眼)であることに気づく。普通の魚と片目の魚、違いは神の領域に棲むか否かである。底なし池に棲む魚全てが片目になるのではなく、底なし池の中に存在する神の領域に棲む魚だけが片目になるのだ。また民俗学者アラン・ダンデスや堀田吉雄の「山の神の研究」によれば、隻眼は男根の象徴であり、男性性の象徴とも言える。時は春の彼岸、男性性の象徴である大蛇がいない。そのため弁天さま(女性性)と対になる大蛇(男性性)が不在時に片目の青い魚が男性性を補完していることになる。その後、五郎七と母親の騒ぎを聞きつけた父親が登場する。母親(女性性)と異なり、父親の登場は遅い。このことから母親(女性性)との結びつきに比べて、五郎七は父親(男性性)との結びつきが弱いことを明示している。人間は母親から生まれる。そのため生まれる前から母親との結びつきは強く、母子結合とも言われる。ときに母子結合は精神的未成熟という意味でも使われる。母親と結合しているということは、精神的に発達しておらず、母親の監視下(管理下)にいるという意味となる。五郎七は何歳くらいなのだろう。「底なし池の弁天さま」の記述には「若者」としかない。現在では二十代が若者という感覚があるが、現在と昔とは違う。現在では成人式が行われるが、昔は元服が行われていた。元服を行う歳は時代によって変化していたが、現在の成人式よりもずっと若い歳に行われていた。十代前半に元服を終える時代もあったことから、五郎七は十代後半なのではないかと推測できる。昔と現在では直接比較することは難しいが、現在十代後半の人間では、まだまだ独り立ちしていない方が多い。このような背景から、五郎七が未成熟で母子結合が強いことを理由に、五郎七自身を否定してはならないだろう。
父親は五郎七に魚を底なし池に返すように言うが、五郎七は聞き入れない。男性性には母子結合を壊すという役割があるが、五郎七は男性性との結びつきはまだ弱い。男性性との結びつきが強ければ、言うことを聞いたかもしれないが、五郎七の男性性が未成熟であり母子結合が強固なため、このような結果になった。臨床心理学者ユングは「禁止ほど好奇心をひきおこすものはない。これはいわばことさら違背を挑発する最も確かな方法である」と述べている。ユングの言う通り、禁止は好奇心への挑発となる。返せと言われれば返さない。五郎七の未成熟な部分が多分に表出している状態であり、退行状態に陥っていると言える。五郎七の退行状態は、この先ずっと続くことになる。
五郎七は父親や母親の静止も聞かず、片目の魚を焼いて食べてしまった。食べるということは、自分の身体に取り入れるということである。食べて身体を成長させる、自然の摂理である。しかし、今回の五郎七の、焼いて食べてしまうという行為は下品に感じる。これは精神的なものを上品として、身体的なものを下品とする価値観にとらわれているからではない。同等に対して肉体的に結びつくのは問題ないが、上(神さま)、この物語で言えば、弁天さまに関係している片目の青い魚と肉体的に結びついてしまったからだ。弁天さまとは肉体的ではなく、精神的に結びつく必要がある。五郎七は弁天さまとの結びつき方を間違ってしまった。この間違いにより、その後の五郎七の運命が決まってしまった。
さて、日本には八百万の神の考え方がある。自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、この考え方に照らせば、神と人間との壁は思いのほか薄い。五郎七も簡単に片目の魚と接触できた。片目の魚と接触できたということは、神の領域に足を踏み入れたことになり、弁天さまと接触が出来るということでもある。現在と比べて、神さまは我々人間の近くに存在していた証明にもなる。
五郎七は昨日と同じように魚釣りを行うが、今日は釣れない。魚が釣れないということは五郎七は退行状態にあることを示している。退行とは心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象である。無意識、つまり五郎七の心的エネルギーが、底なし池に流れていることを指し示している。
その後、底なし池から大きな亀が顔を出し、五郎七をきっとにらみ付ける。しかも片目の亀。亀は水陸両方を行き来し生活できる数少ない生物であり、二つの対立するものを繋ぐ生物である。底なし池と村、弁天さまと人間、無意識と意識、これらを繋ぐために弁天さまが使わした、弁天さまの使いである。それは、亀が片目であることが更に事実を強化している。父親からの言葉にも「それでな、その留守の間は、片目の青い魚と、片目の大きな亀が、大蛇に変わって、弁天さまのお供をするそうじゃ」とある。片目の亀は、弁天さまが五郎七と結びつけるためによこした使いである。片目の亀はにらみつけるだけで、五郎七に対して物理的なことは何もしない。青い魚を食べられたことに対する復讐であれば、片目の亀は五郎七に対して物理的に攻撃をするはずだが。五郎七は、魚が釣れないのは片目の亀がいるからだと思い、持ってきた弁当箱を片目の亀にぶつけた。釣れないのは片目の亀のせいだとする五郎七の心理状態は、まさに退行状態である。幼児退行という言葉があるように、五郎七の思考は低次元のものになっている。釣れないのは片目の亀のせいだとし、自分に非がある(釣りの技術不足)ことを認めない。弁当箱を投げつけるという行為も、非常に野蛮であり、退行現象の一種と言える。こうして五郎七は、春の彼岸の二日の間に、弁天さまのお供の青い魚と片目の亀と接触した。弁天さまとお供の話は、村の言い伝えであったが、五郎七はそれを現実のものにした。五郎七は、他の村人と比べて宗教性が高い人間である可能性が高い。それ故、弁天さまのお供と接触できたのだ。
五郎七は、片目の亀と接触後、家に帰って寝たが、翌朝裸で池に浮かんでいた(死んでいた)。父親と母親は「罰が当たったんじゃ。片目の魚を食べた罰じゃ」と言い泣き崩れた。家に帰って寝たはずの五郎七が何故底なし池で死んでいたのか?五郎七は青い魚と片目の亀と接触することで退行状態にあることはすでに述べた通りである。五郎七の心的エネルギーは、無意識へ向かっており、無意識とはすなわち底なし池である。すでに五郎七と底なし池は青い魚と片目の亀によりつながっており、無意識の中で五郎七が底なし池に向かったのは当然である。では何故五郎七は死んでしまったのか?父親母親が言うように罰が当たったのか?五郎七が青い魚を持ち帰った際に、底なし池に返すように言われた。しかし五郎七は好奇心には勝てず、青い魚を食べてしまった。五郎七は禁止を破ってしまったのである。他の昔話においても、禁止を破った者には労苦が与えられる。その労苦を克服するだけの力があるものは、幸せをつかみ、より高次の自己実現の階段を上っていく。しかし五郎七は弱かった。だから死んだ。青い魚は五郎七に食べられ、五郎七の身体の一部になった。現在では、祭の後に直会という行事が行われる風習がある。直会は神さまと人との最も大切な接触で、神さま用の食べ物を通じて神の霊力が体内に入り、神さまと深く交わることが出来る。五郎七が行った行為は直会どころではなく、弁天さまのお供を食べてしまった。片目の亀は青い魚が食べられたことに対して怒りながらも、弁天さまのお供の一部となった五郎七を底なし池に連れて帰ろうとしたのだ。文献からの孫引きになるがシベリヤにも似た話がある。それによると「ひとりぼっちの猟師が、川の対岸にある深い森からひとりの美女があらわれるのを見る。彼女は手招きしながら彼の心を動かす歌をうたったので、猟師は衣服を脱ぎ捨て川を渡ろうとする。ところが突如として美女は梟(ふくろう)となり、彼は冷たい川のなかに溺れ死んでしまう。」となっている。これを書いたフォンフランツは「女性性の誘惑に負け、不用意に裸になって未知の世界へ入り込もうとするとき、男性は破滅の道を歩むことになる」と解説している。五郎七は、母子結合が強い。シベリヤの話の如く、女性性(弁天さま)の誘惑に負けた。しかし弁天さまのもとへ行くには肉体的にも精神的にもまだ未熟であった。五郎七は男性性の獲得が充分ではなかったのだ。そのため不用意に無意識の世界(底なし池)へ入り込もうとしたとたん、シベリヤの猟師同様、死んでしまったのだ。
その後何人もの村人が池にはまって死んだ。村人は弁天さまのたたりだと言う。五郎七が弁天さまのお供の青い魚を食べてしまったせいで怒ったと言う。死ぬ村人は、底なし池にはまって死んでしまう。弁天さまは女性性の象徴だと前述したが、村人を飲み込んでしまう姿は、否定的な女性性である大母(グレートマザー)としての一面を見せている。底なし池に満々と水をたたえ、田畑に水を与え、魚を与えてくれる肯定的な女性性と村人を飲み込む否定的な女性性。弁天さまは肯定・否定の両面を持ち合わせており、村人の行いにより弁天さまの一面は変わってくる。昔話によっては、池が氾濫して村を全て飲み込む話もあるが、底なし池の弁天さまはそこまでしない。底なし池は阿多古川の渕であったとのことだが、阿多古川の神様は別にいたのだろう。弁天さまは底なし池の神様でしかなく、阿多古川を氾濫させるまでの力はなかったと思われる。
村人たちは皆で相談して、弁天さまの祠を新しく立派なものに作りかえ、許しを願った。また春秋の彼岸には魚釣りを禁止し、盛大なおまつりを行った。すると池に落ちたり、おぼれたりする人はいなくなった。西洋の昔話であると、否定的な女性性に対しては許しを願うのではなく、退治するストーリーになるものが多い。退治することにより、否定的な女性性を切り離すだけでなく、地位や名誉、財宝などを手にする。よく知られるものとしては白雪姫があげられる。容貌の優れた王女白雪姫は、継母(グリム童話初版本では実母)である王妃により殺されそうになる。森で小人や王子と出会い、王子との結婚披露宴で、王妃に真っ赤に焼けた鉄靴を履かせ死ぬまで躍らせた。白雪姫は母親である王妃(否定的な女性像)を退治し、王子と結婚し、王女となることに成功した。さて、我々の昔話はどのような結末となるのだろう。底なし池では、五郎七の行為によって一度は切断された村人と弁天さまの関係に対して、弁天さまを退治するのではなく、弁天さまとの和解を図った。弁天さまのたたりは否定的な女性像の象徴であるが、弁天さまの男性性が如実に現れているという別の解釈も出来る。元々男性性の象徴であった大蛇と、自らの男性性が如実に表れた弁天さま。男性性は切断の機能を持つ。物事を分割し、分離する。神と人間、生と死。底なし池の男性性は、まさにクライマックスとなった。このようなとき、我々はどのように対処すればよいのだろうか。それは村人たちの行為が教えてくれる。弁天さまや大蛇の男性性に対して、村人たちは、西洋の昔話のように排除する(退治する)のではなく、取り入れる(受け入れる)ことを選んだ。弁天さまの行為に対してじっと待つ。村人たちは弁天さまの男性性に対して、自らが女性性となり、弁天さまの行為を正当なものとし包み込み、受け入れた。それにより、ときが来て、弁天さまや大蛇の男性性は自己消滅し、池に落ちたりおぼれたりするものはいなくなった。死と直面していた村人は、死から免れることになった。大蛇には死と再生機能があると前述したが、大蛇の機能により西山の村が再生したと言えよう。そして長い年月が過ぎていくうちに、底なし池には、阿多古の山や川の土砂が入り込んで、池はついに田んぼとなった。五郎七の攻撃を受けた底なし池が、池の機能を停止させた。そこには弁天さまも、大蛇も、片目の亀もいない。今まで村人と深い関わりを持っていたが、村人側(五郎七)の接触により自然に帰ったのだ。有名な昔話「花咲か爺」においても、主人公である老夫婦に尽くした犬が、木になり、臼、灰、桜というように見事に自然に帰っていった。このように日本には自然との融合がテーマとなった昔話が多いのが特徴である。その後、村人と弁天さまはそれぞれの世界に落ち着き、世界を棲み分けることになった。村人が女性性を獲得すると同時に、弁天さまが消滅するということは、村人の女性性と弁天さまの女性性は同質のものと言えるだろう。本来であれば、禁を犯した村人側が去ることになるのではないかと思うが、禁を犯された側が世界を棲み分けることにより、この世を去った。黙って去り行く弁天さまには「せつなさ」、「はかなさ」、また「あはれ」という感情を抱く。自然に対するこういった感情こそが日本人的感覚であると思う。その美的感情こそが、今なお祀られている弁天さまの祠の所以なのかもしれない。
「底なし池の弁天さま」の登場人物に対し、心理検査TATの解釈技法を用い心理的考察を与え、登場人物の心理状態を中心に解釈してきた。昔話として読まれる表層だけでなく、登場人物の無意識にまで入り込んで考察を行うことにより、深い考察を行うことが出来た。
弁天さまを含めた底なし池は自然の象徴であり、昔話「底なし池の弁天さま」は、自然との付き合い方を、登場人物を通じて、分かりやすくダイナミックに描いている。弁天さま(自然)は、我々の接触の仕方によって肯定的にも否定的にもなる。五郎七や村人を通じて、肯定的なときの付き合い方、否定的なときの付き合い方を示してくれ、自然と調和しながら暮らす村人の姿を写し出している。そこには底なし池に象徴される無意識の問題があり、無意識をどのように扱うかが自然との調和の鍵となる。そうしたことが、昔話「底なし池の弁天さま」を通じ表現されており、単純な勧善懲悪の昔話ではないと結論付けられる。
世界には様々な昔話が存在する。本文中にも「底なし池の弁天さま」以外の昔話(白雪姫、花咲か爺など)が登場してきた。どの昔話も、根底(心理学的に言えば無意識)ではつながりがあると感じている。それは「底なし池の弁天さま」の解釈に役立ったからである。洋の東西を問わず役立ったことは、普遍的なことと言え、大きく言えば、昔話を通じて全ての人間が繋がっているとも言える。こういったことから、昔話は人類共通の財産とも言える。しっかりと後世に伝えていかなければならないと思う。
文献
(1)ふるさとものがたり天竜 上阿多古草ぶえ会
(2)昔話と日本人の心 河合隼雄 1982年 岩波書店
(3)昔話の深層−ユング心理学とグリム童話 河合隼雄 1977年 福音館書店
(4)ウィキペディア
(5)昔話・神話にみる蛇の役柄−知恵・生命・異性の象徴となる蛇− 近藤良樹
(6)臨床事例から学ぶ TAT解釈の実際 安香宏・藤田宗和 1997年 新曜社
(7)TATの世界 物語分析の実際 鈴木睦夫 1997年 誠信書房
(8)平成9年度天竜厚生会研究基金研究紀要「入所者本人と他者との心理的関係について」 伊藤政象・鈴木明・坪井亙・松本清乃 1997年 社会福祉法人天竜厚生会