「アングロサクソン系ゲルマン人の伝統」
「敵」を風評や策略にはめて悪者扱いし、世論を味方にして「敵」を世間から切り離し、味方がひとりもいなくなるまで
捏造した罪を盾に「敵」を叩いて怒らせ、「敵」が先に手を出すように誘導する。
計画通りに「敵」が先制攻撃を行えばアングロサクソンは待ってましたとばかり、被害者または正義の味方を気取り、
ほとんど無力の状態になった「敵」を完膚なきまでにつぶします。
「ブルターニュ地方」
「フランスの中でもひときわ異彩を放つブルターニュの地。古くは太古の民族『ケルト人』が住み、
勇猛な彼らは独自の文化を大切に育て、後にブルターニュ公国を築きます。
中世にフランス軍による侵攻を何度も受け、最後までフランス王国に統合されるのを拒み続けますが、
后妃アンヌ・ド・ブルターニュの娘とフランス王フランソワ1世との婚姻により、
ブルターニュは14世紀にとうとうフランスに組み込まれました。」
●かのジル・ド・レはブルターニュの領主であり、当時のフランス国王につぎヨーロッパでは5本の指に入る資産家であった。
ジル・ド・レ(1404年〜1440年)
「フランス西部ブルターニュ地方ナントの大貴族。百年戦争中のオルレアンの戦いでジャンヌ・ダルクを
軍の総司令官として支援しフランスの英雄となる。
のちに配下を使って詐欺・誘拐などにより戦争孤児を居城マシュクール城などに集め、次々に殺害。
男児の首を切り取り、噴出する血液を見て興奮、自慰に耽った。
被害者の数は推定600-1500人程度(150人は確実といわれる)
裁判時に自ら死刑を求刑、1440年10月26日36歳で火刑。」プロファイル研究所より
●さらにジルドレの悪行を詳細に…
「百年戦争の真最中だった当時は、戦争で両親を失った子供たちが街中をさまよっていた。
ジル・ド・レは老婆と屈強な部下を使って、孤児たちを集めさせた。城に連れ込んだ男児に対し、
断末魔の叫びに酔いしれながら、生きたまま首に刃物で頭を切り落とした。
次第に残虐行為はエスカレートする。手足をバラバラにすることもあれば、
釘をつけた棒で子供の頭をメッタ打ちにすることもあった。少しずつ切り刻み、
できるだけ苦痛と悲鳴を長引かせながら、噴出する血液を見て興奮、自慰に耽った。
腹を切り裂いては傷口から手を入れ内臓をつかみ出しひきちぎり、その臭いを嗅いだ。
死体で肛門性交や口淫することもあった。山のような生首をコレクションし、美少年の首を暖炉の上に飾った。」プロファイル研究所より
●…とありますが、すべてはジル・ド・レをハメるためのイギリス人の大ウソではないかと推測します。
しかしコレだけの悪行を並べ立てれば風評攻撃は完璧ですね。こうしてイギリスは着々とジルドレの堀を埋めていく。
●ジルドレの最後の行動がまるで日本の真珠湾攻撃やイラクのクウェート侵攻を連想させます…
「これだけの数の行方不明者が出れば良からぬ噂がたつのも道理。近隣では領主の人喰いの噂で持ちきりになった。
これがやがて大司教の耳にも入る。内密に調査が行われ(※)、やがてド・レ侯は確かに失踪事件に関与している旨の
報告書が提出された。しかし、侯は仮にも百年戦争の功労者、フランス最大の領主である。確かな証拠があがっても、彼を処罰することができるかは疑問だった。
ところが、ここでジルは軽率な行動に出る。1440年、聖霊降臨祭でのこと。ジルは六十余名の軍隊を率いて
或る教会に押し入った。領主権を巡って抗争していた諸侯の弟にあたる聖職者を捕らえるためだったのだが、
ミサを乱すことは当時は極めて重罪だった。この事件が大司教の逆鱗に触れ、ジルを陥れるためのありとあらゆる手段が講じられた。
9月13日、大司教はシャルル7世から許可を得て『異端、幼児殺戮、悪魔との契約、自然の掟に対する違反』の罪で
ジルを告発した。どれ一つをとっても死罪を免れない大罪だった。
裁判はナント城で行われた。1ケ月にも及んだこの裁判は、サド侯爵ならば大歓びすること請け合いの
大残酷博覧会となった。腹心の一人、エティエンヌ・コリエはこのように証言している。
自然の摂理に反して少年たちに自堕落な行為を及ぶために、ド・レ侯はまず自分の性器を握り、勃起するまで擦りました。
そして、淫らな興奮に身を任せて少年の体内で摩擦し、最後にはその腹上で射精するのでした。
絶頂に達した後、侯は我々に命じ、少年の首を生きたまま切断させました。
時にはじわじわとうなじから切ることもありました。侯は大変に興奮し、血を流しながら死んで行く少年を
眺めながら自慰に耽ることもありました。
少年たちに悲鳴をあげさせないために、侯はまず首に縄をかけて、床から3メートルほどの高さに吊るしました。
そして、死ぬ直前に下ろしてやって、声を出すなと云うのでした。それから自分の性器を擦り、少年の腹に射精するのです。果てると同時に、少年の喉を掻き切り、首を切断します。時には首を並べて『どの頭が一番綺麗かね?』
と訊ねることもありました。」殺人博物館より
●教会が関わっている点を見てもジルドレが邪魔だったイギリスによる謀略だろう。
子供たちが本当に死んでいたなら殺したのはイギリス兵だろうし、もとより子供がたくさん殺された事実からして
大うそかもしれない。もっとも百年戦争の時代の真っ只中なわけで子供の死体はごろごろしていたと思われる…
ジルドレの悪行がイギリスによる謀略とすれば大うそが歴史上の常識として定着してしまっていることになるが…
※この調査隊は現在のCIAのようなものだろう。
英仏百年戦争(1337年〜1453年)
1439年:イギリス軍がブルターニュへ侵攻するも失敗する。これがジルドレをハメた要因と推測します。
1440年:ジル・ド・レは腹心プレラッティや自らの執事らと共に捕らえられ、国家裁判と宗教裁判、
それに「教理上の異端に対する」特別裁判にかけられることになります。当初、彼は起訴事実を全面否定し、
そればかりか裁判官を務める判事や聖職者を「神を喰い物にする生臭坊主(※)」などと罵るといったことをしました。
※集団ストーカー被害者が創価学会を悪く言うのに似ています。
1440年10月22日:大審問の日、四方八方から集まった傍聴人でごった返す中、
判事、司教、傍聴に来た農民らの前で彼の告白が始まりました。
かつての「フランス国軍大元帥」の面影は無く、夢遊病者のようにやつれた彼の口から語られたのは、
この世の者の所業は思えない恐ろしいものでした。幼い子どもの身体を蹂躙したこと、その子どもの身体を切り裂き、
その断末魔の叫びに快を覚えたこと、その臓腑の温かさ、匂いを愉しんだこと…
●この告白は信用出来ません。なにしろ中世ですからw ジル・ド・レは恐ろしい拷問を受けたのだと思います…
1442年:サマセット公率いるイギリス軍がブルターニュに上陸。
1445年:サマセット公率いるイギリス軍がブルターニュに侵攻。
●しかしブルターニュは結局1355年〜1488年までの間、イギリスにもフランスにも組み込まれずに独立を守ります。
この期間はブルターニュの黄金時代と呼ばれているそうです。