◎20年10月


52ヘルツのクジラたちの表紙画像

[導入部]

 三島貴瑚は、昔祖母が住んでいて空き家になっていた大分県の小さな海辺の田舎町の家に、東京からひとり移り住んできた。 家の修繕を依頼した業者の村中という男から、明日の天気を聞くような軽い感じで、風俗やってたの?、と言われた。 貴瑚は反射的に男の鼻っ柱めがけて平手打ちする。 謝る村中によると、どうやら貴瑚はこの周辺の住人の間で、東京から逃げてきた風俗嬢という話になっているのだという。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 主人公が大分に来る前と後の話が交互に語られる。 DV、介護地獄等に加え、主人公と上司の男との恋愛話、いわゆる男女のもつれというよくある平凡な話かと思ったら、貴瑚が頼りにするアンさんという人物の実像について全部をひっくり返すような衝撃の展開があった。 虐待されている少年まで登場し、全体に胸が張り裂けそうな重く辛い物語だが、希望はあると思わせる優しい結末になっている。 とりわけ主人公の周囲の人たちの優しさが温かく心に沁みた。


死んだレモンの表紙画像

[導入部]

 事故で車椅子生活になったフィンは、今まさにニュージーランド南端の崖の先端で宙吊りになっていた。 確認のためゾイル家の農場に入り、やっと事件の真相をつかんだが、まさか長男のダレルが残っていたとは。 朝方漁船で兄弟みんな船出したと思っていたのに。 ダレルは乱暴に車椅子を押して海へ向かい、崖で激しく揉みあった末、体が反転したところで眼下の海を見るとダレルが海面にたたきつけられていた。

[採点] ☆☆☆★

[寸評]

 ニュージーランドのミステリー賞であるナイオ・マーシュ賞の新人賞受賞作。 いきなり主人公が絶体絶命のピンチから始まるところが面白い。 あとはここに至るまでの過去の話と、このピンチ以降が交互に語られていく。 物語のテンポは良く、緊張感がある。 ただ隣家の3兄弟の不穏な空気は表現されているが、それ以上の邪悪さは描きたりない。 また途中に挟まれる主人公がセラピーを受ける話がけっこう長いのに、あまり本筋とは関係ないようだったな。


タクジョ!の表紙画像

[導入部]

 高間夏子は大学新卒で東京のタクシー会社に就職した。 入社後、指定された教習所に通って二種免許を取り、晴れてタクシードライバーとしてデビューした。 女性客が安心してタクシーに乗れるようになったらいいと思い、この道を選んだのだ。 手を挙げてくれたお客さんのもとへ車を寄せて停める。 乗り込んだお客さんは夏子の顔を見るとたいてい、おっという顔をする。 なかには実際におっと声を出す人もいる。

[採点] ☆☆☆

[寸評]

 作者には珍しい「お仕事小説」と言えるだろうか。 女性新人タクシードライバーを主人公としたお話。 料金を払わず逃げられたり、タクシー強盗の真似をされたり、となかなか大変な仕事だ。 作者の作品はどれも読みやすいが、この本は今まで以上に会話がとても多い文章で、さらっ読めてしまう。 乗客とドライバーとの会話が非常に多いのはちょっと気になった。 全体を通して楽しく読めたが、主人公の結婚話も平凡で、意外性はなく軽い小説という印象。


雨の中の涙のようにの表紙画像

[導入部]

 中島印章店、伍郎は祖父の後を継いで細々と店を続けていた。 近所に住む姉が小6の姪を連れてやってきた。 姪の持ってきたティーン向け雑誌に出ているアイドルグループの最後列の端の少女に目が留まった。 次の瞬間、心臓が跳ね上がった。 少女には小桜しのぶの面影がある。 染井わかばという名前。 しのぶの本名は染井よし子、その娘は若葉だった。 十年前、伍郎は京都でしのぶと暮らしていた。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 アイドルから俳優に転向して成功したスター・堀尾葉介という人物を狂言回しのように使って、辛く悲しい人たちの生き様を描く八章立ての作品。 各章は登場人物を変え、独立した短編のような形式で、それぞれ30数ページほどだがなかなかドラマチックな展開のものばかり。 作者らしい息苦しく心を削るような悲しみに満ちたものもあるが、ほんわかとした温かな終わりのものもあるのはちょっと意外だった。 どの話も読み応えがあって心に響いてくる作品だ。


剱岳 線の記の表紙画像

[導入部]

 明治40(1907)年、当時、未踏峰とされた北アルプスの剱岳に、日本陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎が率いる測量隊が挑んだ。 初登頂は見事成功したが、ところが彼らは山頂で古代(奈良〜平安期頃)の仏具を発見した。 柴崎隊よりはるか昔、剱岳の山頂にたどり着いた人がいたのだ。 著者は剱岳のファーストクライマーの謎、5W1Hの点と点を繋ぎ合わせ、剱岳に消えた一本の線を探す旅に出る。

[採点] ☆☆☆

[寸評]

 平安時代の初登頂ミステリーを題材とした小説だと思ったら、著者が初登頂者の謎を解き明かしていくノンフィクション、ドキュメントだった。 冒険家の著者は、何度も剱岳に登り、膨大な文献にあたり、博物館や寺社を巡り、多くの関係者を直接訪問して、少しずつ初登頂者の実像に迫っていく。 解明の旅は行きつ戻りつ、可能性を探り、検証してはつぶしていく地道な過程が丹念に書かれている。 そこは現実で、スリリングには運ばないのも致し方ないところ。


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