◎7月


われは熊楠の表紙画像

[導入部]

 一八八二(明治十五)年の初夏、紀州和歌浦にある不老橋の勾欄に南方熊楠はまたがっていた。 齢十五。 中学は無断欠席している。 こんな晴天の下、校舎に閉じこもってくだらぬ授業を聞いているなどもったいないというのが当人の言い分だ。 熊楠はたらいにぐいっと顔を近づけ、こぼれ落ちそうなほど目を剥いて、つい先刻捕まえた蟹を観察していた。 熊楠の頭の中ではいくつもの声が同時に湧いていたが脳内の声を一喝して観察を再開した。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 この世のすべてを知り尽くしたいと、あらゆる事物を研究対象とした南方熊楠の生涯を描いた作品。 特異な熊楠の奇矯な振る舞いも含め、たいへん波乱に富んだ人生ではあるが、どちらかと言うと物語は派手さを抑え、比較的淡々とした調子で進む。 それでも物語の終盤、天皇陛下に粘菌について御進講する場面は感動的だ。 在野の研究者として公には認められてこなかった熊楠が艱難辛苦の末たどり着いた輝きの場面の描き方が非常に良い。 直木賞の候補になっている。


終わりなき夜に少女はの表紙画像

[導入部]

 1995年、アラバマ州ブライアー郡の田舎町グレイス。 15歳の少女サマー・ライアンが失踪した。 ブライアー郡では数年前に連続少女誘拐事件が発生しており、5人の少女が行方不明のままで、犯人と目される“鳥男”が目撃されたが犯人逮捕には至っていなかった。 犯人に連れ去られたと思しい少女たちは“ブライアー・ガールズ”と称されている。 サマーの父親のジョーは警察よりもまず仲間たちに連絡した。 捜索隊は総勢10名を数えた。

[採点] ☆☆☆★

[寸評]

 本国では傑作
「われら闇より天を見る」の前に刊行された作品が翻訳された。 物語はいくつかの者の視点で語られるが、中心は失踪した娘の双子の妹レインで、同年代の少年が彼女に協力する。 レインの暴走気味の探索行・言動が面白い。 別の視点として、事件捜査に加えて住民の治安維持にも苦労する警察署長ブラックの閉塞感に満ちた語りも読み応えあり。 犯人探しものとしてはもうひとつの印象で、ミステリーとしての面白さも「われら闇より天を見る」には及ばない。


ここはすべての夜明け前の表紙画像

[導入部]

 2123年10月、九州の山奥の誰もいない場所に暮らすわたし。 今からわたしが書くのはわたしの家族の話。 101年前に父がわたしに家族史を書いてほしいと言ったのは、これから家族がひとりひとり年をとって死んでいくが、融合手術を受けて長い時間を生きれるわたしは暇だろうからということだった。 そのことは忘れていたが、このあいだシンちゃんが死んでわたしの話を聞いてくれる人がいなくなり、家族史のことを思い出した。

[採点] ☆☆☆★

[寸評]

 手術によりサイボーグ化して老いない身体となった女性の綴る家族史の体裁をとったSF。 物語全体は大きく3章に分かれており、主人公が語る家族史の部分はほとんどがひらがなばかりの文章なので読み始めた当初は戸惑ったがすぐ慣れる。 文章は淡々とした調子だが、そのところどころに不老となって家族を次々に看取っていく主人公の後悔や人間としての気持ちがにじみ出ている。 あまりに短い作品でちょっと物足りないが、終盤の主人公の決断には胸が熱くなった。


ビリー・サマーズの表紙画像

[導入部]

 今までに18人を仕留めてきた凄腕の殺し屋ビリー・サマーズ。 44歳になり、引退前の最後のひと仕事としてニックの依頼を受けることにした。 ビリーは狙撃手としては卓越した腕前だが、いささか頭が鈍く見えるよう演技している。 今回の成功報酬は二百万ドルという破格の好条件。 標的は今はロサンジェルスの刑務所に収監されている男。 暴行と強姦未遂で起訴されているターゲットが裁判所へ移送される一瞬を狙撃する手はずだ。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 モダン・ホラーの巨匠キングによるクライム・サスペンスだが、さすがキング、なにを書いても上手い。 前半のビリーの隠れ蓑づくりの展開はじっくりとややスローに描かれるが、狙撃実行後の後半に入り、新たにアリスという若い女性が登場するあたりから速度を増し、ハードボイルドタッチに彩られサスペンス度が上がる。 ビリーが綴る作中作もめっぽう面白い。 狙撃仕事の黒幕と暗殺の理由もなるほどと思わせるし、さらに終盤は切ないラブストーリーを読ませてくれる。


死んだ山田と教室の表紙画像

[導入部]

 啓栄大学附属穂木高校の九月一日は二学期最初の登校日。 八月二十九日に山田が死んで三日が経った。 山田は猫を助けようと車道に出て飲酒運転の車に轢かれて亡くなった。 クラスの人気者だった山田が亡くなり、二年E組の教室はぽっかり穴が空いてしまったように静まりかえっている。 担任の花浦先生が席替えを提案すると教室の黒板の上のスピーカーから山田の声が聞こえてきた。 全員が呆気にとられ、山田の声がする箱を見上げる。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 車に轢かれて死んだはずのクラスの人気者の魂が教室のスピーカーに憑依してしまったという、とんでもなくファンタジーな設定だが、中身は直球の青春小説だ。 突飛な設定だけで10話を間延びもせずに保たせてしまう作者の力業がとにかく凄い。 男子校の話なのだが、私も高校時代、男子だけのクラスだったことがあるので、バカバカしくも愛おしいあの頃がよみがえり思い出した。 下ネタ交じりのくだらない会話はいつの時代も変わらないらしい。 メフィスト賞受賞作。


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