AUGUST

◎8月


二人目の私が夜歩くの表紙画像

[導入部]

 高校三年の鈴木茜は十年前、小学一年の頃、自動車事故で両親を亡くし、母方の祖父母に引き取られ暮らしてきた。 来年には大学受験を目指している。 茜は学校からの帰宅途中に祖母の知り合いの重美さんに呼びとめられ、市内に住む寝たきりの患者を訪ねる「おはなしボランティア」に誘われ、咲子さんの家を訪れる。 もうすぐ三十歳という咲子さんは十代の頃に事故に遭い頸椎損傷により首から下が麻痺して自発呼吸もできない身体だった。

[採点] ☆☆☆

[寸評]

 ちょっと変わったタイトルだと思ったら話の設定そのままだった。 内容は大きく「昼のはなし」と「夜のはなし」の二部構成で、ファンタジーのような第一部から第二部に入った途端に茜の秘密が明らかにされて、その構成に驚いた。 そこからは徐々に昔の事故の真相が焦点となっていき、それはそれでしっかり組み立てられ、登場人物たちの多面性の描写も面白いが、全体に話はあまり楽しめなかった。 多重人格(解離性同一性障害)ものということで興趣をそがれた感じはある。


射手座の香る夏の表紙画像

[導入部]

 気づかなかったのはきっと、臭いがしなかったからだ。 羆の咆哮に振り返ったとき、神崎紗月は副体姿である不運を呪った。 彼女の入っている副体は嗅覚機能は備わっておらず、外界の音を聞き分けるのも苦手だ。 手遅れになるまで羆の存在を気取れなかったのはそのせいだった。 副体の通信装置を使い羆が出たことを手短に報告する。 今すぐ緊急離脱するよう無線越しに男は言った。 意識の抜けた副体なら羆も襲わないだろうと。(表題作)

[採点] ☆☆☆

[寸評]

 創元SF短編賞を受賞した表題作を含む4つの中短編。 人の意識を人口身体に転送する技術が普及した近未来の日本が舞台の表題作は、場面が変わるたびに話も大きく転換してストーリーについていけず。 二作目の「十五までは神のうち」はそのSF的設定はともかくノスタルジックな雰囲気が良かった。 四作目「影たちのいたところ」は少女と九つの影を持つ少年との不思議な冒険譚でなかなかスリルのある作品。 全体に面白く読ませるという点では今ひとつの作品集だった。


シャーロック・ホームズの凱旋の表紙画像

[導入部]

 ジョン・H・ワトソンはこの数年間、シャーロック・ホームズの許可を得て、彼の手がけた事件記録を雑誌に発表してきた。 それら冒険譚は洛中洛外の探偵小説愛好家たちを熱狂させ、ホームズの名声も絶頂を迎え、依頼人たちが寺町通221Bの門前に市をなした。 ワトソンはメアリと結婚して念願の診療所を下鴨神社界隈に開設した。 しかしいつの間にかホームズは深刻なスランプに陥った。 ホームズ譚の連載は無期限休止を余儀なくされた。

[採点] ☆☆☆★

[寸評]

 ホームズものと言ってもあくまで探偵小説ではなく、作者らしいまさに森見ワールドといった趣のファンタジー。 ヴィクトリア朝京都という舞台設定からして驚かされる。 ホームズがモリアーティ教授と仲良しとはびっくり。 人を飲み込んでしまうような「東の東の間」の謎もあるが、ミステリー味というよりあくまで森見ファンタジーだった。 全体としてはテンポがゆっくりで、少し長すぎた感じではある。 ホームズとアイリーン・アドラーとの謎解き合戦も読みたかったな。


絶海の表紙画像

[導入部]

 英国は1739年10月にスペインに宣戦布告した。 この戦争は、欧州の列強同士が帝国の版図を拡大しようと繰り広げていた覇権争いの所産だった。 英国当局による作戦の指揮官に任命されたのはアンソン代将だった。 アンソンはじめ約二千人の乗組員は五隻の軍艦等からなる小艦隊で大西洋を横断し、南米大陸最南端のホーン岬を周り、敵艦を「拿捕、沈没、つけ火、さもなくば破壊」してスペイン領を弱体化させる作戦を命じられる。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 18世紀、英国軍艦が見舞われた地獄のような日々を描くノンフィクションで、作者は現地取材など2年に及ぶ緻密な調査資料を元に5年をかけて完成させたサスペンスタッチの作品。 出航前には謎の伝染病、南米大陸南端では大嵐に飲み込まれ、艦隊は散り散りになり、流れ着いた無人島では飢餓との闘いが続く。 艦長のチープ、掌砲長のバルクリー、士官候補生のバイロンの3人を中心に綴られる物語は少し文体は硬いが、奇跡の生還まで波瀾万丈、とにかく壮絶な実話でした。


愚か者の石の表紙画像

[導入部]

 明治十八年、初夏。 瀬戸内巽は北海道の樺戸集治監に送られる囚人として石狩川を上る汽船に揺られていた。 二十一歳の巽は大学でいつしか学友に誘われるまま、世の中の不正を正し真に万民が豊かになれる社会をつくるという活動をしている大人たちの集まりに足を運んでいた。 運動員の言葉に酔った巽だったが、所属する団体は中央官庁の制圧を計画し、巽は真っ先に憲兵隊に捕まった。 国事犯として徒刑十三年の判決が言い渡された。

[採点] ☆☆☆☆

[寸評]

 東京でなに不自由なく暮らしていた青年が、ほとんど冤罪のような刑を受け北海道で服役する様を描く監獄小説。 家族からは見放され、極寒の地での過酷な労働、劣悪な環境での地獄のような日々が描かれる。 巽を主として、軽妙な語りで和ませるほら吹きの大二郎、寡黙で実直な中田看守の3人が描かれるのだが、組み合わせ、描き分けが絶妙。 暗い話だが、全編に緊張感とともに臨場感のある物語で、終盤の大二郎の真相に至るあたりはたいへんドラマチックだった。


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