ハイサイ

首里城

沖 縄

2007.2.25〜27

ブーゲンビリア

    万座毛(まんざもう)・美ら海ちゅらうみ)水族館

2日目は晴天、23度。万座毛から名護パイナップルパーク。
「沖縄海洋博記念公園」の「美ら海水族館」は世界一のアクリルパネル、厚さ60センチの巨大水槽。ジンベイザメ(全長7.5メートル)、マンタ(オニイトマキエイ)、海亀が見上げる位置をお腹を見せて泳いでいた。なんと大きい、なんとゆったり。
小魚が玉のように集ってキラキラ、ミラーボールより美しい。

沖縄の海の色は七色に変わるという。コバルト、エメラルド、スカイブルー、グリーン・・・透明な水底は浅そうに見えて引き込まれそう。
海洋記念公園の「エメラルドビーチ」、古宇利島が美しかった。珊瑚の砂はさらさらとした象牙色で、波打ち際に砕けて風化した珊瑚が打ち寄せられている。白い貝殻拾ったよ。

辺戸岬

沖縄本島最北端の辺戸岬は、晴天で、与論島が見えた。
深海を思わせる紺碧の海。髪を逆立てる強風。断崖の下は打ち寄せる波がしぶきを上げ
て波頭が牛乳のようなきめ細かな白さ。顔に飛沫(しぶき)を感じながら、離れがたい
海だった

   首 里 城

旅立ちの日、飛行機の窓越しに、雪の衣の裾を
引いた富士山の噴火口が見えていた。
それなのに那覇空港は雨で、「めんそーれ」。
「守礼の門」、世界遺産の「首里城公園」は傘を
片手に。カメラのレンズに雨の粒。

中国文化の影響をうけた金箔を施した装飾、
深い朱塗りの床、柱、壁・・・異国のたたずまい。

琉球王国は明治維新の廃藩置県で、14世紀末
創設の首里城を明け渡し沖縄県となった。
そして・・・沖縄戦で焼失。1992年再建された
そうだ。

ハイサイ♪ おはよう・こんにちは・こんばんわ

ひめゆりの塔・ひめゆり平和資料館

1945年3月、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒222人と教師18人
が沖縄市南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に配属され従軍。
看護活動をしていた最後の場所。

6月18日、軍は突然の「解散命令」を出す。壕を脱出する直前、米軍にガス弾を打ち
込まれ多くの死傷者を出した。米軍包囲の中逃げ場を失い、自決などで動員され
240人の中136人が、命を散らした。
                         (ひめゆり平和記念資料館のパンフから抜粋)

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塔の手前草が見えるところが壕の入り口


この資料館の中には陸軍病院の壕のジオラマ
があり、「ひめゆりの塔」(塔というより「碑」のよ
うに見える)の前の、今は周囲が草や木で中が
窺い知れなくなっている壕の凄さを見せてくれ
ている。
傾斜のきつさ、狭さ、「く」の字にかかった梯子
を使っての活動の大変さが感じられた。
ひめゆり部隊の生存者が、その日々を語って
いた。

乙女達の写真、掘り起こされた医療器具、生
存者の証言が、大きな冊子になって読めるよ
うになっている。
若者達が熱心に読んでいた。語り継がなけ
ればいけない沖縄戦。

涙をこらえがたい展示である。

平和記念公園・平和の礎(いしじ)

糸満市、摩文仁の丘。絶壁から向こうの断崖の波打ち際、水平線を見渡せ
る場所に「平和の広場」があった。

広場の中央に「平和の火」が灯っていてる。周囲は大きな丸いお盆に水を
張ったようなモニュメントで、水底に世界地図がみえた。
日本が見えますか。

ひめゆり平和資料館
ここを中心に放射状に「刻銘碑」が屏風のように並んでいた。国、軍人、一般の
人を問わず、1945年3月26日(米軍上陸日)から9月7日(降伏文書調印日)まで
の間、沖縄県の区域内で戦没された人が刻銘されているそうだ。(一部例外もある)
太平洋戦争(第二次世界大戦)・沖縄戦終結50周年を記念して建設されたという。


刻銘碑には24万人余りの氏名が刻まれ、静岡県は1709人だという。
日本最大の地上戦と言われた沖縄戦が、こんな美しい場所で展開されていた
ことを私は初めて実感した。
沖縄戦跡国定公園
平和の灯
平和記念資料館

植樹されている面白い樹形木は 「モモタマナ」

マップは沖縄観光協会HPからお借りしました。

沖縄本島

荒崎」は断崖絶壁で、「ひめゆりの塔」のある壕から脱出し、ここまで逃げ延びて来ま
したが、米軍の包囲に逃げ場を失った「ひめゆりの学徒」が何人も身を投じたそうです。

遠くの赤い屋根の建物は、「平和記念資料館」

20歳だというバスガイドは、沖縄の
激動の歴史を語り伝えることが自
分の使命だと思っているのではな
いだろうか。彼女の熱い思いが伝
わってきて、ふとそんな気がした。

「ご自分の目で見た沖縄を、お帰
りになったらお会いした皆さんにお
伝え下さい。」最後に彼女はこう
結んだ。

伝える想いは、旅行者一人一人違
うだろうが、私は、本土の盾となって
戦った戦没者の想いを託されたよう
に感じた。
託された悲しい、重い思いをどう伝
えよう。