Bitter Beater





「――あと何回だ、セイバー!」

 霧が消し飛んだ。荒野の幻影も潰える。立場ははっきりしていた。
 士郎は道場にいた。セイバーと向かい合っている。不甲斐ない自分を鼓舞するために剣をとったセイバーと、戦っている。
 呆気にとられていたセイバーが、数瞬の間を置いて、ようやく答えた。
「……五回です。ですがシロウ、もうその傷では――」
「五回だな。わかった。――セイバー」
 士郎は全身を突き上げる熱の命じるまま、悔いるように顔を伏せたセイバーの言葉を遮った。恨む気持ちはまったくなかった。熱に浮いた頭も折れたろっ骨もうまく動かない両足もひび割れた腕も、まるで足りない。
 世界の代弁たるセイバーの剣さえ、今の自分の前では物足りない気分になる。
「その間に、おまえを倒す」
「――――わかりました。もとより私が始めた事。気の済むまでお相手しましょう」
 すっと、セイバーの瞳が冴えた。手に持った竹刀がまるで真剣に変じたように圧迫感を増す。寸分の動きも見逃すまいと、士郎は目を凝らした。
 開始を告げるのは、セイバーの足が道場の床を踏み抜く轟音だった。
 剛剣が首を断つように伸びる。切っ先を目で追わないままに士郎はその一撃を防ぎ、同時に空いた空間へ全身を滑り込ませる。間合いを詰めなくては話にならない。もともと二刀とは攻防一致、そのための技術だ。
「―――っ!」
 隙間のないほどセイバーに密着した士郎は、そのまま肩口から体当たりを仕掛けた。体格差は圧倒的だ。通常なら手もなくセイバーは弾き飛ぶだろう。
「が、ぁ、う――」
 だが、体を崩したのは士郎だった。見るまでもない。セイバーの右拳が深々と脇腹にめり込んでいた。胃液が喉からこみ上げた。飲み下す。呼吸が行き場を求め体内で荒れ狂った。全力で制御する。
 翻るセイバーの剣が、再度士郎の首を狙った。それを察知できたのは神憑りだ。だが双剣の片方を失った。竹が弾かれる独特の音を立てながら宙を舞う。次の瞬間にはセイバーの竹刀が、士郎の胴を薙いでいた。これで一度。強制的に吐き出される空気を士郎は押し止めた。剣はまだ残っている。頭にちらつくのはセイバーでも痛みでもなく、家を出て行く凛の背中だった。その手に持った紙袋だった。――そういえば今日はバレンタインだ。俺はまだ遠坂にチョコを貰ってもいない。
 ――去年はあれだ、今年も貰わずになんていられるか!
 逆胴を打たれ、左脇を打ち据えられた。これで三度。振り上げた剣はまだ遠い。出血がみょうに鮮烈だった。返り血がセイバーの衣服まで汚している。遠坂に怒られるな、と士郎は思った。思いながら、拳三つ分を挟んで正対するセイバーの目前で両足の間隔を大きく広げた。重心が下がる。セイバーの眉が動いた。半身をひねる。隙だらけだったが、セイバーは見過ごすという確信があった。渾身の一撃を受けろという、それは誘いだ。剣士が逃げることはありえない。
 弾かれた竹刀がようやく地に落ちた。
 脳裏にある赤い騎士の挙動を寸分違わず投影した一撃が、士郎の腕から放たれた。最短の軌道を描く剣閃はセイバーの胸元へ狙い違わず吸いこまれ――
 それも凌がれた。剣を振るった士郎の右手首に鈍痛が生じる。感覚は消失していた。
「は、冗談だろ――」
 呆然と呟く。残った竹刀は、合わせられたセイバーの打擲によって、柄から先が爆発したように弾けていた。
「――終わりですね。シロウ、貴方はよくやったほうだ」
 四度目――二十九度目の死が士郎にもたらされた。肩口を打ち据える、容赦の無い一閃だった。関節くらいは外れたかも知れない。残り一度。敗北を運命付けられて、なお士郎は笑った。笑顔もまた、凛に育てられた芽のひとつだった。
 ――たくさんのものを貰う。これからもきっと。
 訝りの表情を見せたセイバーに、士郎は呟いた。「終わりじゃないぞ、セイバー」

「――――俺は、遠坂を愛してる。死ぬまでずっとだ。いや、死んだって同じだ」

 セイバーの顔が引きつった。次の瞬間士郎が為そうとしていることを気取ったのだろう。同時にその手の中の竹刀が動きを再開した。流麗な剣舞ははるか遠い領域にある。無手で防ぐ事など叶わない。だが――。

「―――投影トレース開始オン

 改革の呪文を経て、士郎の両手に宝剣干将莫耶が結実した。

「シロウ、それはないでしょう――――!」
「当たり前だばか、マトモにやっておまえに勝てるわけあるか――――!」

 剣が閃く。時は刹那さえ要さない。ただ一度の交差のあと――
 勝負はそこに決した。
 








 じきに日没だった。士郎のためのチョコレートも残すところひとつだけになってしまっている。
「やっぱり来なかったか。――ま、そういうコトもあるかな、とは思ってたけど」
 息が凍りつく温度に、凛はコートの襟を閉じた。
 これ以上儀式を伸ばすことは出来ないだろう。あの時は夜明けで今は日暮れだが、目の前の荒野に黄金色が広がっていく光景はまるで焼き直しだった。――アーチャーの弔いを始めるのには、きっと適した時間だ。
「――アーチャー」
 誓いの言葉を一年温めつづけてきたはずなのに、それはきちんとした言葉にはならなかった。思考のかけらが単語になって零れだす。そんな印象だ。最期に見た、傷だらけの弓兵を思い出した――ぼろぼろだと笑っていた。まったくだ。殴りつけたかった。馬鹿だと言ってやりたかった。文句は他にも山ほどあった――でも口に出来なかった。まったくやっかい極まりない悪癖だ。肝心なところで思い通りにならないのだから。
 だから今、つたない言葉を口にしようとしている。凛は必死で考えをまとめようとしている。だが、溜め込んだ言葉たちはちっともまとまろうとはしなかった。足りないものがある、と凛に反抗しているように思えた。
 日没が始まった。
「なんで来ないのよ、あのバカ――」
 これで最後と決めて、悪口を囁いた。それで気分はきれいに割り切られる。少なくともそう思い込むことはできる。家に帰って顔を合わせても、微笑むことが出来る。寂しくはあるけれども、きっと仕方のないことだ。それに、夕暮れで美人がひとり、送別会。絵になるってもんじゃない?――もし凛が口の端についたチョコレートのアクセントに気付いていたら、そんな矜持さえなくなって、哀愁より先に情けなさで泣き出したかもしれない。
 胸元から宝石を取り出した。最後のチョコレートに指を伸ばした。凛は――
 声を聴いた。

「遠坂」

 それだけで嗚咽がこぼれた。そのせいで振り向く事が出来ない。今日初めてまともに見られる顔がみっともない半泣き顔だなどと、遠坂凛の誇りが許すはずはなかった。
 ただ、思った。――信じられない。また、アンタに泣かされた。文句を言おうにも、口を開くとそのままビブラートがきいてなし崩しに泣き出してしまいそうでままならない。だから凛はせめて肩を震わせて、『遅い』という言葉の代わりにした。
 ためらうような沈黙のあと、恐る恐るといった調子で士郎の声がする。
「……寒いのか?」
「違うわよバカ! あほ! へっぽこ! 鈍感!」
 涙の衝動は一瞬で潮のように引いた。捨て鉢な気分で、最後のチョコレートを口に放り込む。胸で宝石を握ったまま凛はようやくやってきた少年を振り向いて、

 そこに彼がいた。

「あ――」
 後光を浴びて、その背にはハレーションが浮かび上がっている。見上げるほど高い場所にある顔。ぼろぼろの体。少し弱っている顔。まるで似ていない。なのに否応なしに一年前の夜明けが反復再生された。言うべきだと思った。この一瞬の錯覚の内に、あの皮肉な英雄に言いたかった事を何もかもすべて。
「――あふぁっ」
 だが、口の中にはチョコレートがあった。瞬間沸騰器もかくやというほどに頭に血を上らせた凛は想いを言葉にすることを諦めた。遠坂凛は決断の早い女だ。決めたことはやり遂げるのだ。迷いなく、歯を食い縛ることもなく。鮮やかに眩しく。それはきっと買いかぶりだったが、自分がそうできないとは微塵も思わない。凛は一歩を踏みだした。

 そして自分を見下ろすその顔を、思い切り殴りつけた。

 万言にかえた一発だった。あらゆる誓いが胸を去来した。瞬時に焼きついた。一年前のような見栄は忘れている。謝罪でもある。泣き言でもある。『士郎』、といいたかった。絶対に殺させないという意志もあった。努力した人間は報われるべきだ、だから貴方は救われなくちゃいけない。世界になんて戻らなくてもいい。逃げられるなら逃げた方がいい。士郎は大丈夫、と凛は思った。わたしが一緒にいる。ずっといる、幸せにする。アンタみたいにひねくれさせたりはしないし世界にも渡さない。だから、だから――
 別れを告げたかった。
「……痛いぞ、遠坂」
 しかしその言葉で、魔法は解けた。眩むようだった光はその勢いを弱め、既に半分を地平に沈めている。
 薄暮の中。遠坂凛の衛宮士郎が、わりと洒落にならない様子で殴られた頬を抑えていた。凛は何かを言おうとして――でもまだ口の中にはチョコレートが残っていた。もどかしい。しかし、チョコレートがなくてもわななく唇は言葉を紡がなかっただろう。凛には今、言葉よりも切実に求めるものがある。

 口の中にはチョコレートがあった。
 今日はバレンタイン・デイだった。
 頭上には衛宮士郎の唇があった。
 遠坂凛は飛びついてキスをした。

 くちづけは当然甘かった。溺れそうなくらいだ。口の中でカカオの香りが溢れている。薄目越しに、士郎が目を白黒させているのがわかった。でも構わない。今日一日の採算を合わせよう。凛は意地悪く笑いながらさらに強く唇を押し付けた。口の中の甘味を、余さず士郎の口に伝えた。
 強引に飲み込ませてさらに十秒余。ようやく凛は士郎から離れた。遠くから見れば、ひとつだった影がふたつに分かれたように見えただろう。
「は……――これ、チョコか。遠坂」
「……そうよ。わたし特製のね。ありがとく受け取りなさい」
 唇を尖らせて言うと、士郎は困った風に呟いた。
「いや。受け取るっていうか流し込まれただろ、今」
 真っ赤な顔で可愛げのないことをいう少年にうるさいといい置いて、凛はつと違和感に顔をしかめた。
「あれ? これ、血の味? アンタ、なんで、」
 絶句した。
 逆光でぼろぼろだに見えたのだと凛は思っていたが、本当に、心底から、衛宮士郎はずたぼろだった。ぼろ雑巾よりもひどい有様だ。口の端からはだらだらと血――ではなくそれはチョコレートだったが――を流しているし、着ている服も全身あまさずくたびれている。よく見れば右腕も力を失ったように垂れ下げられていた。
「――車にでも轢かれたわけ?」
 力無く士郎が笑った。
「似たようなもんかもな。セイバーにとっちめられた」
「――セイバーに? なんで」
 士郎は肩をすくめるだけだった。晴れやかな顔をしている。忘れかけていた対抗心が凛の中でむくむくと目ざめだした。
「なに。なにがあったのよ。言いなさい衛宮くん。貴方、わたしの使い魔でしょうっ」
 だが、頑として士郎は答えようとしなかった。凛はますますむきになって、
「だいたい、なんでアンタここに来てるのよ。今日はひとりにしてって言ったわよね、なのに――」
「……いや、ほら。もう暗いだろ。遠坂は女の子だし、夜道は危ないじゃないか」
 苦しい言い訳をする士郎の腹を人差し指でつついて、凛は上品な笑みを浮かべた。士郎の顔がひきつった。
「あのね、衛宮くん。それ、危険物の貴方が危険物処理班のわたしに言える台詞かしら?」
「いや、あのな、遠坂――」
「あーもういい。いいから。言い訳は禁止よ。なんにしても貴方はわたしとの約束を破った。そうよね?」
 不承不承という面持ちで士郎が頷いた。
「なら、当然そこにはペナルティが必要でしょ?」
「――む。……ああ。俺が約束を破ったのは事実だ。煮るなり焼くなり、好きなようにしてくれていいぞ」
「煮も焼きもしないわよ。――ていうかちょっとかがみなさい士郎。見上げて会話するのってけっこう疲れるんだから。飛びつかなきゃキスも出来ないのって、なんか悔しい感じよね……」
 言われるままに背を曲げて近くなった士郎の顔面を、凛は両手ではさみこんだ。真正面からその瞳をのぞきこむと、
「あ。まだチョコ残ってるわね――」
 再び唇を士郎のそれへ寄せた。
「と、」
 おさか、という発音は呼気に紛れて、凛は間近でその流れを感じる。重ねられた唇をわずかにそらして、顎へくだっていくラインに這わせた。そのままはみ出た口紅さながらに模様を描くチョコレートを、猫の親子がそうするように舌で舐め取った。
「――うわ。しょっぱい。士郎ひょっとして汗まみれ?」
 舌を突き出しながら文句を言うと、士郎は百面相のあと知るかとそっぽを向いた。凛はごく自然に微笑んでいる自分を発見する。
 久しぶりに、悪くない気分だった。
 夕焼けはいよいよあたりに闇を濃くしていて、きっと顔色の変化なんて分からない。その思い切りが凛を妙な行動に走らせた。実際、近ごろ触れ合わずにストレスがたまっていたのも事実なのだ。
 さて、と凛は両手を腰に置いて、肝心の『ペナルティ』を口にすることにした。そっぽを向きながらも律儀に腰をかがめている士郎の耳元へ、唇を近づけていく。大胆な口づけで勢いをつけたつもりだったが、怖れを完全に振り払う事はできない。士郎は怒るだろうか? 怒るだろうな、と凛は思った。でも必要なことなのだ。二人で――いや、セイバーも含めた三人で、これから先もうまくやっていく。日本を出てイギリスへ。その先もずっと。士郎を幸せにする――世界に浮気する余裕なんてないくらいに引張りまわしてやらなければならない。
 そうよね――第一夫人の余裕で、冗談混じりに凛は思った。世界なんて大物を相手取るのだから、味方は多いにこしたことはない。そう考えれば尊敬すべき騎士王でありほんの少しうらめしい少女に対しても、きっと変わらずアドバンテージを保持する事ができるだろう。――もちろん、浮気などは許さないが。

 そして、『願いごと』を口にすると、案の定士郎は顔をしかめた。

「それ、ほんとにやらなきゃだめか?」
 思ったとおりの反応に、もちろんと凛は頷いた。ときどき予想から外れる衛宮士郎だが、こんなときばかりは凛の思い通りに動いてくれる。今日も――結局は、この場所にやってきた。凛が折り合いをつけようとしているような感情を、彼も抱いているのかはわからない。彼にとってのアーチャーは、凛にとってのセイバーよりもだいぶ複雑で、しかも腹立たしい存在だろう。何しろ凛は未来の自分になど会ったことはないから、士郎の気持ちはわからない。
 わからなくてもよかった。何しろ他ならぬ『衛宮士郎』自身が凛に保証した。遠坂凛は、決めたことを気負いなくやり遂げられる女だと。それは、あやふやで不確かで、手探りで歩くには暗すぎる未来を明るくする言葉だった。
「――なあ遠坂。アーチャーのこと、好きだったのか」
 朴念仁の言葉だった。だが笑顔が浮かぶのを凛は止められない。嫉妬されているということは、愛されているということだ。――いよいよわたしも深みにはまっているかな、と呟こうとして、すぐに気付いた。セイバーに対して嫉妬している自分だって、確かにいる。ごまかしは利かない。かといってそれをここで口にするのも違うように思えた。
「わたしはね、士郎」
 深みにはとっくにはまっているのだ。そして、決めたのだ。
「士郎だから、好きなの。――これじゃ不満?」
 遠坂凛は衛宮士郎を幸せにする。人生を賭してもやり遂げる。その夢には、それだけの価値がある。凛はそう信じる事ができる。
 同じように、今からすることも必要だと言い切れる。

――アイツのお墓を作りましょう。そして一緒に誓うの

 だいぶ渋ったが、結局士郎は了解した。心の贅肉なのは誰より凛が承知している。はめられた、とぶつくさ言っている士郎が剣製に取りかかったのを苦笑しながら見つめて、凛もまた自分のための葬送を始めることにする。
 取り出したのは、赤い宝石だった。衛宮士郎が殺されたあの日、彼から手渡されたものだ。唯一無二のはずの宝石、英霊エミヤの依代のひとつ。時間も空間も、世界すらも越えて、『遠坂凛』の元へ戻ってきた父の形見。
 ――でも、それはわたし・・・のものじゃない。
 彼にとっての『遠坂凛』を、凛はときどき考えることがあった。どんな関係だったのか? あるいは関係なんてなかったのか? やはり聖杯戦争をともに潜り抜けたのか、戦友として? それとも、やっぱり、そこでも、自分たちは――
 全ては遥か遠い、別の世界の話だった。
 時の翁の系譜たる遠坂ならば、いつかその真相をのぞくことも可能かも知れない。
 一年かけて魔力を編みこんだ宝石を、凛は風に散り消える砂へと変えた。荒野に吹く風は穏やかだったが、身を切る冷たさは厳しさを増している。隣で、墓標代わりとばかりに剣が地面に突き立てられた。一度だけ見たことのある、芯の通った螺旋状の剣。アーチャーは宝具というものを持たない英霊だった。愛用したという意味では一対の双剣こそが相応しいだろう。だが、螺旋の剣は何より彼を体現しているように思えた。
 宝石は風に消え、時に還っていった。
 突き立てられた剣もやがて消え、しかしわたしたちは忘れないだろう。
 士郎が小さな声で何かを呟いたが、凛にはうまく聞き取れなかった。じゃあな、とか、余計なお世話だ、とか、何だか会話をしているようにも思えたけれど、きっと気のせいだろう。
 ――無茶しちゃって。
 立っているのもつらそうな様子でいる士郎の腕をとって、凛は呟いた。
「忘れないでよね、士郎。アーチャーのこと」
 いよいよ夜へと世界が沈む中。近づかなければ顔も見えない。しかし凛には士郎の表情が手に取るように思い浮かべられた。きっと、唇をへの字に結んで眉根を寄せているに違いない。そして言うのだ、
「忘れるわけ、ないだろ」
「……ふん。でもそれだけじゃ足りないわよ。放っておいたらいくらでも自分を犠牲にして遠くへ行っちゃいそうだからね、アンタって。そんなの、わたしは絶対許さない。だから時計塔に行く前に、どうしても――」
 そこで手を離して、凛は士郎と向かい合う形に体をいれかえた。夜の闇に、その大きな体は消え入りそうに見えた。
「もう一度、誓いたかったの。貴方たちの前でね」
 きっと良く見える彼の目には、はっきりと映っているに違いない。凛は微笑んだ。寒風にひきつった頬も、そのときばかりは柔らかく表情を作った。
「士郎、わたし、アンタを真人間にするわよ。それで――もうこれ以上はない、無理、勘弁してくださいっていうくらいハッピーにする。だから覚悟しなさい。そして貴方も誓うの。――ご主人さまを裏切って、世界の奴隷になんかならないってね」
「は――ご主人さまって、遠坂、おまえな」
 赤くなりかけていた士郎の顔が、あきれ果てた、という表情を作った。
「……なによ。文句でもあるっていうの? わたしの前で誓いはできないかしら」
「遠坂は、それでいいのか。――おまえは、幸せなのか?」
「あたりまえじゃない。士郎。わたし、貴方のこと好きよ。貴方はどう?」
 赤面ものの台詞だったが、こういうものは勢いこそが全てだと凛は心得ていた。後出しは流儀ではないのだ。攻めて攻めて、一気に畳み掛ける。しどろもどろに口を開閉する士郎に対して往生際が悪い、と不機嫌な顔で追い詰めると、――
 意を決した顔で、彼も答えた。
「ああ。俺も遠坂のことが好きだ。だから世界に鞍替えはしないし――その、それだけじゃなくて、俺も遠坂を幸せにする。――絶対だ」
 その言葉を聴き終えた次の瞬間、凛は士郎の首っ玉にとびついていた。世界のあちこちで歓声が上がっていた。星はきらびやかに二人を祝福していた。山は静かで、邪魔はどこにもいなかった。士郎がいた。言葉は言葉だ。凛はそれを理解している。現実は酷薄だ。世界は不条理だ。いつか、あるいはかつてにも、誓いはあったかもしれない。それは果たされなかったかもしれない。果たされたかもしれない。
「うわっ、不意打ちは卑怯だろ、遠坂!」
「――アンタがそれを言うかっ、いつものお返しよ!」

 笑い声を上げる。それでも、ただそれだけの言葉がこんなにも自分を舞い上がらせる。言葉ははかない。気持ちは移ろう。心は細く、見えにくく、簡単にすれ違う。万難が目の前に立ちふさがっていた。だがどれもこれも小さく見えた。きっと一息で飛び越えられる、そう思わせる力が言葉にはあった。

どうでもいいがな。墓前というのならそこでトウを立たせるのはやめておけ

 風が囁くひねくれた声に舌を出して、凛は士郎にキスをした。








「――む。来ていたのか、衛宮」

 日が暮れて、遠坂凛のことを一成が思い出したのはまったくの偶然だった。夕刻の禅に集中できなかったのは昼間に見た憂い顔が脳裏にちらついた、などという理由では決してない。純粋な気まぐれである。
 山頂の方から歩いてくる二人は、遠目にも睦まじく見えた。どうやら難は逃れたか――と安堵しかけている自分を律して、喝と一成は自戒した。衛宮士郎のためにも、遠坂凛に対する牽制は常に怠ってはならない。
 こんな時間まで何を、と説教の一つでもしようと思っていた一成の耳に、凛の浮かれきった声が響いた。

「りゅーどーくーん! わたしたちねえー! けっこんするからー!」

 聞き間違いかと思った。
 両目が極限まで見開かれた。
 一成の眼鏡が地面に落ちた。
「な、」
 思わず詰め寄ろうとして――

 足を止めたのは、寄り添って歩いてくる二人があまりにも幸福そうに見えたからだった。

「―――フン」
 何を言う気もなくして、柳洞一成は深い深いため息をついた。よりによって異教の――それも菓子事業のでっちあげのような日に親友の婚約発表を聞かされる羽目になるとは。皮肉なのかなんでもないことなのかもわからない。
 ただ、自分の役割はわかっていた。得がたい友人二人が手に入れた幸せを真っ先に祝福する栄誉が与えられたのだ。それは光栄なことではないだろうか?
 だが、その前にいうべきことがあった。既に上りきった月に照らされて、人影はくっきりと見えている。一成はまずみょうにくたびれた衛宮士郎を感慨深く見つめ、ついでその腕から離れようとしない遠坂凛を見つめた。
「その――なあ、一成」
「わかっている。皆まで言うな衛宮。俺とおまえの仲ではないか」
 何かを言いかけた士郎の台詞を遮って、一成は凛を眇めた。当の凛は生徒会長なにするものぞ、とばかりに余裕綽々一成を見返している。
「むう……」
 女狐め、と言いそうになるのを自制して、一成は咳払いした。
 そして言った。

「いいか遠坂。貴様に衛宮を任せるからには、――必ず幸せにしろ。でなければお山には七代先まで貴様の悪名が残るぞ」

「へ――?」
 『一成……』と感動している士郎を尻目に、凛は一瞬ぽかんと口を開けた。
 そして次の瞬間には、お山全体に響き渡る声で爆笑していた。

「ぶ、ひ、あ、あはははははははははははあーはははは、だめ、ひっ、勘弁して、りゅー、どうくん、それ、あはははははっ、恋人を取られたヒトのせりふじゃなひー、あはははは、あはははははははは!」

 もちろん一成の頭は瞬時にして沸いた。手にはいつの間にか警策が握られている。
「こ、このおおたわけが―――! 貴様、よくも真摯な友情を茶化してくれたなっ、ええいやはり貴様は女狐だ! 貴様なんぞに衛宮を渡せるか――!」
「あははは、ふ、ぐ、げほっ、だめ――、面白すぎる、ひー、あはははははは! しぬー、しぬーっ」
 スイッチが入ったように凛は腹を抱えて笑いながら、境内を走り回る。その後を一成が追いかけまわす。士郎はその様を笑いながら眺めて――

――苦労するな
「……ふん。そんなのはお互い様だろ」
違いない









 笑いながら凛は境内を走る。舞うようにステップを踏む。ぼんやり立ち尽くしている士郎の手を引いた。一成がますます加熱して、その様子がさらに凛の笑いを誘う。星はライトだった。石畳はステージだった。ついでに小坊主は神父で――なら警策は聖書だろうか?
 一年が過ぎた。道はどこまでも続いている。どこへでも続いている。いつかへ。あるいはかつてへ。
 それでも、望むのは今だった。
 笑いすぎて目じりから涙が雫を落とした。凛は士郎と踊る。
 今日はバレンタインだった。チョコレートはもうない。食べきってしまった。体重計を気にするまでにはまだあと何時間か、猶予がある。それまで魔法は解けない。
 ねえ――凛は囁いた。好きよ、士郎。


 そしてさよなら、アーチャー。







Happy St Valentine's Day For Lovers≠奄刀@The End.