初めての海外旅行
「大唐西域記」に記されたインド亜大陸に広がる仏蹟は、十代からの憧れの地でした。その思いと機が熟しコルカタから始まる半年間の巡礼の一人旅に出たのは、昭和48年〔1973〕の師走のことです。
その旅の途中、スワットやガンダーラで子供に石を投げられたり、バスで移動中に荷物を心配してトイレの機を逃し、カブールのモスクの入り口で倒れこむように用足しをしたこともありました。陳腐なことですが、初めての海外旅行に100万の現金を肌身につけて出かけた時代のことです。
当時、多くの日本青年は五木寛之の小説の影響をうけ、ウラジオストックからシベリヤ鉄道に乗りヨーロッパへ。そして北アフリカ、地中海を経てトルコ、アフガンへと入国してきていました。
私がバーミアンへ降り立ったのは49年の2月14日のこと。カブールからバーミアンへのプロペラ機の乗客はアメリカ人老夫婦と私の三人だけ。白銀の尾根を眼下にしての40分のフライトです。飛行場から大仏まで歩いて行きましたが、雪の中を流れる小川や、黒牛が水を飲みロバが荷を運ぶ光景は、自然そのものに写りました。
バザールで賑わうバーミアン街道に立ちながら、仏の教えはこの道を通り人から人へ遥々と極東の私まで時空を超え流れ来たったのだと、縁の不思議を全身で受け止めました。三蔵法師の時代と変わらぬようなつましい生活ぶりと人馬の行き来するバザールのさんざめきを見聞きすれば、目の前の道は悠久の古代に繋がっていきます。
大仏の足元にみかんと香を備え、額ずいた時の感動は一入のものがありました。
アフガンで生産されるものは、人間と羊とカーペットだと旅の仲間で噂しあった位の貧しかった国です。しかし当時その貧しさをせせら笑うように、バグラムの飛行場を巨大なジェット機が頻繁に離発着する異様な光景を目にしました。すでにソ連の影が忍び寄っていたのでしょうか。
スワットの谷に木の葉の舞ふ一夜
その夜は明けず絶えぬ木枯し
静岡県立美術館 友の会報掲載
<前のページへ
次のページへ>
目次へもどる
Copyright © 2002-2008 Daichuji All rights reserved.