鑑真和上展に寄せて
「鑑真和上展」と聞いて、平成4年2月2日付けの産経新聞の記事〔唐招提寺の森本孝順長老〔89〕へのインタビュー〕を思い出しました。
= 毎日、御影堂〔みえどう〕に参ります。「生きてござるがごとく仕えよ」 唐招提寺の伝統なんです。珍しい頂だい物はまず開山さん〔鑑真和上坐像〕にお目にかけて、それから頂きますからね。 霜の降りた朝には火鉢を入れて、必ずご開山さんの横に置きますよ。いい習慣だと思うてるんです。ほんとのこと。独り言する。「寒うございましたな」「いいものもらいましたよ」。帰りには頭下げてね、独り者でも寂しうないんですよ。 内容は毎日違ってくる。ここの長老としての心配事なりなんなり、独り言言わなしゃあないですわ。 日々の細かいことを報告することで、正しい考えが頭に浮かぶ。邪〔よこしま〕なのは出てきませんわな。相手〔が〕人間だったら、いろんなかってなことしゃべる。ご開山さんだと勝手なことおっしゃらん。間違いないでしょ。ものいわん人にもの言うてもらうのが一番ありがたいですね。ご開山さんなればこそ、です。 もの言う人にもの言わしとったらあきませんな。理不尽な考えも出てきます。ご開山さんだったら、正しいことになるでしょう。それが私の一番の身上。 今から千二百年前、ご開山さんが日本にいらっしゃってからこの方、そういう環境をつくってきたことに、間違いはなかったと思いますね。= 千二百年にわたり連綿と伝えられた唐招提寺の精神を覗かせて頂いたような記事です。長老さんのつぶやきのような語り口に誠実なものはけして派手ではなく、いぶし銀のような存在感なのだと感じ入りました。 「如在」〔いますがごとく〕という言葉がありますが、ここで長老さんは「生きてござるがごとく仕えよ」と一歩突っ込んだ言い方をされています。 それにしても754年に渡海の辛苦をなめ、失明するに至ったが素志を貫徹し来日を果たした鑑真和上を待ち受けていたのは、聖武天皇・光明皇后以下の多くの仏教に救いを求める人達でした。 伝戒の師として新しい東大寺に立った鑑真和上を、当時の人達はどれほどの安堵と安らぎをもって見つめたことでしょう。そこには迷子が苦難の末に懐かしい父母にめぐり会えたような心地すら偲ばれます。 芭蕉さんが鑑真和上像の前にして「若葉して御めの雫ぬぐはばや」と詠まれた句には「生きてござる」思いがみてとれるように思います。アンドレ マルローの仲立ちでヴィーナスやモナリサの答礼として和上像がパリのプチ・パレ美術館に展示される時、森本長老はお給仕のためつき従ったと聞きました。 数年前に鑑真和上が伝えた袈裟の色「香染色」〔こうずいろ〕があることを知り驚きました。その色目はタイやスリランカの僧が身にまとう色そのものです。中世になって生まれたわび・さびという美に慣らされた目には、文化の土壌の違いが明らかに感じてとれました。 「香染色」には今日の日本化された宗派仏教には見られない、奈良仏教の特質であるおおらかで明るい国際性を感じました。奈良時代は恐らく形を重んじる現代の日本人が忘れてしまった「生きてござる」という、より直接的で人間的な捉え方が充満していた時代であったことでしょう。それにしても長き時を経て染色の世界にまで、和上の名が記憶されている事実に驚きました。 鑑真和上の将来品のひとつに、3000粒の仏舎利「仏陀の真正の骨の象徴」があります。古くは篤信の人に分け与えられ、その授与者の名簿が今に残っているといいます。私は学生時代にその一部と伝える三粒の仏舎利を京・釈迦堂の尼僧より頂いておまつりしてきました。多分明治の混乱に乗じて寺から外に出たものでしょう。この仏舎利は和上と共に風波大難を乗り越え日本に至り、時空をへだて今わが手中にあります。 鑑真和上は千二百年前に亡くなったのではない。千二百年生きぬいてこの静岡の地にお出かけ下さったのでしょう。それにしても仏教はもとより建築、美術、医学わけても漢方と多くのものを日本にもたらして下さった鑑真和上と、我々の接点は思わぬところにあるように思います。そんなエピソードの幾つかを今回の展覧会で見聞きしたいものです。 平成20年6月 |
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