於きく観音由来
於きく観音は、西村公朝師により「ふれあい観音」として作られました。そのため日本国中やハワイにまで同じお姿が 体おまつりされています。師は長い仏像の歴史のなかで、目の悪い方のために作られた仏さまのなかったことに気づかれました。そこで師は目の悪い方が仏さまに直接手でふれて、そのお姿を確認していただきたいと思われたのです。そのためこの観音さまのお体の各所は、目の悪い方にも触って形がわかるように誇張して作られています。
ところで大中寺では、代々住職の仕事を補佐し仏さまのお給仕のお手伝いをする男性や女性の方がおりました。その中の一人に先師・高橋友道師の時代から私の代にいたる数十年間にわたり大中寺をお守りして下さった信心深い女性がおりました。名は落合きくさんです。私の無いそして表裏のない一枚の女性でした。
私はある困難に出逢った時、ふとこの「お菊さん」のことが頻りに思われたのです。彼女の在世中にお寺が無事に過ごすことが出来たのは「お菊さん」が陰になり日向になり守ってくださったからだと思っています。そのような経緯があり観音さまの建立を発願致しました時、お菊さんの名前をいただき「於きく観音」と名付けました。私にとってお菊さんは生きた観音さまのようなお人でした。
お菊さんを知る方から一つのエピソードを聞きました。戦後のことです。お百姓さんは薩摩芋の苗場を作るのに山の下草が必要でした。ある年のこと伊豆の国市の長岡まで早朝に草刈に出かけて一杯の草を載せて夕方に馬車で帰るときです。馬の手綱を握りながら車の上で菊地由行さんが、歩くのは大変だから車に乗るようにとお菊さんに言ったら「馬が重たいから」と返事をしてとうとう中沢田まで歩いて帰ってきたそうです。この話は彼女が亡くなって何年もしてから聞きましたが、彼女ならそうしても不思議ではないと思いました。なぜなら彼女は自分の身を使うことを厭わなかった人だったからです。
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