常世の街から本当の夜空が見えるようになったのはつい昨日の事。
吉原に起こった異変に揺れたのは何も地下だけの事ではなかった。突然の事態に一番慌てたのは、その地下世界を黙認してきた幕府である。ハッチが稼動した区域への避難命令や交通規制等の人的配備に始まりマスコミへの言論統制など、公然の秘密であるが故にその対応には慎重な判断が求められた。
そんな中、上層部の混乱を察知した警察庁長官・松平片栗虎は密かにさっちゃんを呼び寄せ、吉原の調査を命じた。
* * *
さっちゃんが向かったのは、吉原の楼主である夜王鳳仙の楼閣。常ならば店に並んだ艶やかな女たちや一夜の夢を求めた男たちなどで賑わっているが、今は人影もなくひっそりと静まり返り、豪奢な楼閣も無残な姿を晒している。戦闘の跡と思われる崩れた壁からさっちゃんは難なく侵入し、音も無く駆けていく。あちらこちらと視線を走らせながら、上へと昇っていった。
最上階の手前、奥まった一角でさっちゃんは足を止めた。これまで通ってきた遊女たちの部屋はみな妓楼に相応しく和室となっていたが、目の前にあるのは無機質なドアだった。色調も合わされ見落としかねないところだが、さっちゃんが気付いたのも当然で、そのドアは半開きになっていた。一瞬の逡巡の後、音を立てぬようそっとドアを押す。
広くはないその部屋は事務所のようであったが、机も棚も荒らされ書類が散乱している。中に入ったさっちゃんは長い髪を掻き上げながらため息をついた。
「……期待はしてなかったけどね」
それでも諦められないのか、足元の書類を拾い上げた。しかし、ざっと目を通し目的の物でないと知れると、ぱっとその手を離した。ひらりと書類が落ちる。
「無駄じゃ、みな持っていかれておる」
いつの間にか寝巻き姿の女が腕を組み入口の壁に凭れる様にして立っていた。頭にも腕にも包帯が巻かれている。冷然とさっちゃんを見つめる女はつまらなそうに言った。
「大方、吉原の弱みでも探りに来たのじゃろ?春雨も幕府中央もさすがに昨日の今日では手が回るまいとでも思ったんじゃろうが、連中も甘くはないわ。わっちらが気付いた時にはこの状態ぞ。おとなしく諦めるんじゃな」
突然現われた女に振り向いたさっちゃんだが、その顔に動揺は無い。それどころか以前からの知り合いであるかのように淡々と言葉を返した。
「そのようね。でも、随分と手回しが良過ぎるんじゃないかしら?」
「連中も鳳仙を扱い兼ねておったからな。寧ろ、絶好の機会と思ったのであろうよ」
「ふうん、色々とありそうね」
女が指摘した通り、さっちゃんは今回の異変に関してではなく、吉原内部の情報を探るように命じられた。仕事自体は今までにも似たような依頼を受けてきたが、幕府中央絡みは初めてである。その方面には慎重な松平が動いたという事実が、いかに上が混乱しているかを表しているとも言えた。
女から目を離さぬままさっちゃんは少し思案する。当初の予定では吉原の住人と接触する予定はなかったが、目の前の満身創痍といえる女が何の情報も持っていないとは考えにくかった。本来の仕事ではないが、質問の矛先を変えた。
「ついでだから聞くけど、一体誰があの夜王鳳仙を倒したのかしら?」
直球過ぎる質問に女はやんわりと口の端を吊り上げる。
「なんじゃ、鳳仙が倒れたことがもう知れておるのか」
「一応ね。でも、上じゃ色んな情報が飛び交っててね。詳しく知りたいのよ」
「それなら簡単な話じゃ。ぬしも夜兎族が日光に弱いことを知らんわけではなかろう?鳳仙とて夜兎じゃ。太陽には勝てやしんせん」
「太陽ねぇ……」
さっちゃんは納得出来ぬように小首を傾げた。その脳裏には良く知る万事屋の少女が浮かんでいたのだが、まさか目の前の女も顔見知りだとは当然知る由も無い。
「でも、それは死因だわ。それなら質問を変えるけど、誰がこのハッチを開けたのかしら?鳳仙に刃向かおうだなんて常軌を逸しているとしか思えないけれど、そんな誰かがいたのよね」
「さて、わっちは知らぬ。そんな愚か者がおるなら、その面是非拝んでみたいものじゃ。だが、ハッチに関して分からんでもない。この吉原に澱の如く積もり積もった遊女たちの思いが、常世の街にお天道様を呼び寄せたのであろうよ」
傍から見る分にはどちらも穏やかな笑みを浮かべている。しかし、二人の間には息をするのも躊躇われるような緊張感が漂う。微動だにもせず、静かに対峙する二人。
先に折れたのはさっちゃんだった。
「まあ、いいわ。貴女を吐かせるのは骨が折れそうだし、こちらも準備がないものね」
その言葉を合図にそれまで張り詰めていた空気が緩む。組んでいた腕を解いた女の手にちらりと黒光りするものが見えたが、さっちゃんはあえて見なかった振りをした。仕込み武器を構えていたのはさっちゃんも同様だったからである。
改めて寝巻き姿の女を見遣りながら、少し呆れたように言った。
「けど、貴女いいの?」
「何がじゃ」
「ここは別に春雨の支配が終わったわけでもないんでしょう?幕府中央だってこのまま放ってはおかないでしょうし。逃げるんだったら今の内じゃないかしら」
さっちゃんとしては当然の疑問を口にしただけだが、女はふふと笑った。
「何かおかしなこと言ったかしら?」
「いや、ぬし言うことはもっともじゃ」
女はさっちゃんの言葉に頷きつつも、しかし――と続けた。
「――この街の行方は決まっておらん。皆で地上へ移り住むかもしれんし、ここに居続けるかもしれん。それを最後まで見届けるのが、吉原の番人であるわっちの役目じゃ」
さっちゃんは女の誇らしげなその瞳の強さに少しだけ眩しいような羨ましいような気持ちになり、思わず目を伏せた。夜の中で生きてきた女は、これからは陽の下で生きるのだと。
「余計なお世話だったみたいね」
「何、心配痛み入る」
話はそこで途切れ、さっちゃんは女に背を向けた。元々不法侵入者と番人。別れの言葉も無い。窓を開け放ち桟に足を掛けたところで、さっちゃんは不意に振り返った。
「ねえ、これは個人的な話なんだけど、暇な時でいいから私の仕事手伝ってくれないかしら。貴女とならいい仕事が出来そうだわ」
さっちゃんが出て行くのを見送っていた女は、突然の話に目を瞬かせたがすぐにフッと笑った。
「悪いがお断りじゃな。わっちは始末屋には成りきれんかった女じゃ。ぬしには不足であろうよ」
「それは残念。あの死神太夫と組んだとなれば私の株も上がるのに」
肩を竦めそう言ったさっちゃんだが、その表情は楽しげなものだった。
「それじゃあ、お大事に」
とんっと軽やかに踏み出したさっちゃんは楼閣を後にした。
収穫らしい収穫は無かったが、それもまた報告の一つだろうと忍びらしくあっさりと結論を出す。そのまま屋根伝いに走りながら下を見ると、空を見上げる遊女の姿が目に映った。その表情にふと銀時のことが思い浮かんだが、一つ頭を振ると更にスピードを上げ闇の中に紛れていった。
夜と闇
2009.03.21