あれがいつだったか忘れたが、近くの神社であった夏祭りからの帰り道だったと思う。俺は夜店で買ったリンゴ飴を齧りながら、ヅラと高杉の後ろを歩いていた。普段、夜に出歩くことなんて滅多にない二人は、いつになく浮かれていたように思う。いや、今になってみれば俺も祭りの雰囲気にあてられて、はしゃいでいたんだろう。
ちょうど、先生の家の近くまで来た時だった。
「なぁ……ちょっと寄ってかねェ?」
口調こそ躊躇いがちだが、高杉のその目は行く気満々で。ちらりとヅラの表情を窺ってみれば、向こうも渋い顔で俺を見ていた。多分、同じ表情で同じことを考えているのだろう。これが一度目や二度目だったら、俺たちも手を叩いて賛同しただろう。けど、モノには限度というものがある。正直、また始まったよ……とか思わなくもない。
「どうせ、また明日来るんだし、いーだろ。先生は逃げねぇよ」
「銀時の言うとおりだな。それに、夜分に突然お伺いしても、先生のご迷惑となろう」
ここであからさまにを不満を示したが最後、逆に意固地になりかねないので、俺もヅラもあくまで素っ気ない風を装う。何しろへそを曲げた高杉は電波受信中のヅラより性質が悪い。
「……何か言ったか、銀時」
「行こうぜー、高杉」
睨みつけてくるヅラを無視して、高杉に声を掛けるが歩き出そうとする気配はない。いい加減面倒になってきて、置いてこうぜと喉元まで出掛かったとき、高杉が拗ねたように呟いた。
「先生だって祭りに行きたいはずなんだ。だって、今日の帰り際、私の分まで楽しんでおいでって……」
俺とヅラは思わず顔を見合わせる。確かに松陽先生はあの敷地から出ることを許されていない。俺達からすれば、それはただの僻みとやっかみ、中傷の結果にしか思えなかったのだが、先生がそれを大人しく受けて入れていたから、それ以上言うことは出来なかった。もっとも、俺たちはこれっぽっちも納得していなかったが。
だから、高杉の気持ちが分からないでもない。というか、同じだと言っていい。どうやらヅラも同様らしく、歩き出すタイミングがぴたりと合い苦笑する。
「仕方ねぇな。晋ちゃんが駄々こねてるし、付きやってやるか」
「まあ、先生も今日が祭りだと知っていらっしゃるし、少しならばお相手してくださるだろう」
「お前らも行きたいなら行きたいって素直に言えばいいだろ!」
慌てて歩き出した高杉が、俺たちの変わり身の早さに文句をつける。
「静かにしろ。ご近所のご迷惑になる」
「さっさと行こうぜ。先生が寝ちまったら元も子もねーし」
「お前らなァ!」
そのまま俺たちを追い越した膨れっ面の高杉を先頭に、先生の家の裏手へと回る。都合のいい事に、明かりのついている部屋はちょうど庭に面していて、そこから声を掛けてすぐに帰るつもりだった。ただ、せっかくなので驚かせようという話になり、足音を立てぬようにこっそりと家へと近付いた。
「ちょっと待て」
「どうした?」
「中から誰かの声がする」
耳を澄ませてみれば、明かりのついた座敷からは先生と、先生とは似ても似つかない低く太い声が聞こえてきた。先客らしい。高杉が言い出したことだが、俺自身もすっかり先生と会うつもりでいたから、肩透かしを食らわされたような気分になった。
「仕方ねぇな」
「客人が来ているならば、お邪魔するわけにはいくまい」
「……そうだな。いいよ、明日せ」
――ガラリと開いた障子。
煌めく白刃と共に黒々とした影が跳躍する。俺はとっさに二人を突き飛ばし、刀を抜いた。振り下ろされた初太刀を受け、そのまま鍔迫り合いとなる。相手は身形もそこそこで、どこにでもいそうなごく普通の男だが、目だけがギラついて気持ちが悪い。
「お止め下さい」
いつもと変わらない穏やかな先生の声。明かりを背にした先生の影がぼんやりと拡散し庭に落ちる。しかし、それでも相手は刀を引こうとしない。先生が庭へと下りて来るのが見えた。
「大丈夫です。この子たちは私の生徒です。貴方を驚かせてしまったのは申し訳なく思いますが、私の顔に免じて刀を収めては頂けませんか」
「生徒……?」
「ええ。大事な私の生徒たちですよ」
目の前の男は先生の言葉に渋々ながらも刀を引いた。俺はこの隙に斬れるなという考えが一瞬頭をよぎったが、先生の手前それを実行には移さず、大人しく引き下がる。先生は俺の背後で尻餅を付いている高杉とヅラを立ち上がらせて、着物に付いた土を払ってやっていた。
「二人とも大丈夫ですか?あまり汚れてはいませんが、お家の人に怒られてしまうかもしれませんね」
「せ、先生」
「どうしたんですか、こんな遅い時間に。今日はお祭りに……ああ、もしかして私の家へと寄ってくれるつもりだったんですね」
「え、あ……そ、そうです」
声からして二人が相当怯えているのが分かった。無理もないと思う。坊ちゃん育ちの二人には、こんな斬った張ったの一歩手前ですら初めてのことだろう。馴れ切ってしまっている自分を少し皮肉に思っていると、男が苛立ったような様子で先生の方へと歩み寄った。
「吉田殿!貴殿は事の重大さが分かっていらっしゃるのか!この事が露見すれば私も貴方もただでは済まぬ!子供とはいえども、このまま捨て置く訳にはいくまい!」
ここへ来てやっと男の正体に見当が付き、なるほどと思った。松陽先生と密会していると幕府にでも知られたら、即首が飛ぶだろう。それは松陽先生も同様で、今のこの状況がかなりまずい。だが、先生はそんな男の剣幕にも一向に頓着する様子もなく、寧ろ朗らかともいえる調子で答えた。
「ですから、大丈夫だと申し上げているのです。今はまだ幼いですが、いずれこの国を背負って立つ者となりましょう。近いうちにお引き合わせすることになったと思いますよ」
先生にしてみればごく普通に答えたのだろうが、まず男の望む返答ではないなと思った。さっきの言葉は要するに、自分の顔を見られた子供たちが邪魔だから殺してしまえに他ならない。その辺りの機微を察せられない先生は、良く言えば世間ずれしていない、悪く言えば世間知らずなのだろう。けれど、俺たちはそんな先生が好きだった。俺は誰よりも好きだった。だから、迷わず言った。
「オッサン。心配なら俺を殺しとけよ。そうすりゃ、そっちの二人は死んでも口外しようとは思わないだろうし、俺が死んでも誰も文句も言わねぇからな」
この時、はったりでも何でもなく、俺は本気だった。このご時世、憂国の徒を名乗る野郎は沢山いて、俺の経験上こういう手合いが一番危ない。無駄に高い自尊心と異常なまでの自己愛。国のためという大義名分を掲げ、保身のためならなんでもやる。
考えているのか躊躇っているのか、動こうとしない男に更に言おうとしたら、ぐいっと袖を引かれた。振り向けばヅラと高杉が青い顔をしながら怒っている。
「馬鹿!何言ってんだよ!ホント馬鹿だろお前!」
「高杉の言う通りだ!先生だってそんな風に護られてもちっとも嬉しくないに決まってる!」
二人には悪いが前言を撤回する気は無かったので、こいつらの泣きそうな顔なんて見るの久々だなぁとか全然違うことを思っていると、先生が俺の髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「私も二人の意見に賛成だよ。銀時が良くっても、私が困る。この銀髪が愛でられなくなるのは寂しいし、私も小太郎も晋助も毎日がつまらなくなるよ」
「でも」
「銀時、少しは私を信用しておくれ。それに、彼とはこの国の行く末を案じている、いわば同志。お前が心配するような事は何も無い。さあ、三人とも早くお帰りなさい」
威厳を伴った響きに、思わず先生の顔を見つめ直す。
その強い眼差しに目の前にいるのが、俺たちの先生で、そして吉田松陽その人なのだと改めて思い知らされる。だからこそ、先生はここに閉じ込められているのだし、男も危険を冒してまで会いに来たのだと。
「……帰ろうぜ」
「銀時?!」
「お前はいきなり斬りつけてくるような奴と先生を二人っきりにしていいのかよ!」
「――大丈夫なんだよな、先生」
「もちろん」
にこりと笑いどこまでも優しく穏やかな先生の声。それにヅラと高杉は安心したのか、俺を引っ張ってその場を離れようとする。俺は引っ張られるまま歩いたが、敷地の境界ギリギリでやはり少しだけ気になって振り返った。
「銀時!何をしている!」
「先生なら大丈夫だって!……銀時?」
「……先生も結構な狸だよな」
「タヌキ?」
「あー何でもね。さっさと帰ろうぜ」
思ったとおり、先生は笑顔のまま俺たちを見送っていた。
三人組。先生。夜。秘密。
2008.07.31