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江戸時代前期に洪水から身を守るために住民によって築かれた避難所で「築山(つきやま)」とも呼ばれている。 1680年の「延宝の高潮」で中新田・大野(当時の同笠新田)を中心に約300人の死者が出たことをきっかけに築 かれた弁財天川河口に近く、最も高潮の被害を受けやすい中新田の命山は高さ5bもある。 ![]() |
大野は人口が多かったためか、高さは3.5bだが、頂上の避難所の面積が136uと中新田の2倍もあるのが特徴である。 ![]() |
言う伝説がある。遠州海岸は海亀の産卵地でこの松は海岸から500bも内陸にあるが当時は波打ち際であった と言われる。残念ながら、平成18年になって松くい虫の被害にあい枯れてしまい、伐採されました。この写 真は平成17年に撮影しました。 ![]() |
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![]() ![]() ![]() 鳥居が建っているが、神社ではなく修験道のお堂である。行者堂の脇に立つ顕彰碑によって詳しいいきさつを知ることができる。 |
臣たちを支える事業として明治3年(1870)に製塩局を置き200人程が湊 村の浜辺に移住した。ここには瓦葺の建物が14棟、他に役所、道場、筆学 校(学校)、商所、鍛治場等も置かれ、大変が賑わいを呈したという。しかし、 この土地は雨が多く、製塩には適していなかったため明治5年に廃止となり、 住人は離散していった。 |
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寛政12年(1800) 12月のこと、湊の前浜に中国南京を出向し長崎へ向かった清国の商船が漂着したが、当時は外国との
交流は長崎を除いて認められておらず、想像を絶する騒動となった。厳重な警戒のもと乗組員は太郎助村庄屋屋敷・新福寺
・大島村大安寺に収容、荷物は湊の万福寺・長江庵に保管された。3ヵ月後、乗組員の帰国が決定され、太郎助村を出立した
一行は福田湊から下田・伊勢・瀬戸内海を経て長崎に到着した。この間2ヶ月を要する航海であった。
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1990年(平成2) 竹下内閣の「ふるさとの創生事業」として1億円により当時の浅羽町営グランドの一角に建設された。 |
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