袋井市立幸浦コミュニティーセンター
2002 (平成4)より8fの休耕田を利用して作られた。500万本のコスモスの花が満開となる光景は圧巻である。
中新田命山
江戸時代前期に洪水から身を守るために住民によって築かれた避難所で「築山(つきやま)」とも呼ばれている。
1680年の「延宝の高潮」で中新田・大野(当時の同笠新田)を中心に約300人の死者が出たことをきっかけに築
かれた弁財天川河口に近く、最も高潮の被害を受けやすい中新田の命山は高さ5bもある。

大野命山
大野は人口が多かったためか、高さは3.5bだが、頂上の避難所の面積が136uと中新田の2倍もあるのが特徴である。

室町時代、母子が津波にさらわれたが、母が海亀の姿になって子供を助けて息絶えたので亀を葬って植えたと
言う伝説がある。遠州海岸は海亀の産卵地でこの松は海岸から500bも内陸にあるが当時は波打ち際であった
と言われる。残念ながら、平成18年になって松くい虫の被害にあい枯れてしまい、伐採されました。この写
真は平成17年に撮影しました。
正しくは「浜松ー御前崎」と言い、遠州の美しい海岸や砂丘、自然を満喫できる全長63qのサイクリングロード。
1680年の「延宝の高潮」を機に横須賀城主、本多利長の命令で築かれた堤防。これにより「浅羽三十三ヵ村」は高さ1〜3b、総延長12.7qに及ぶ堤防に守られ「浅羽1万石」と呼ばれる美田地域となった。

袋井市は静岡県のメロンの4分の1近くを生産する県下一のメロン産地であり「クラウンメロン」 の名で全国的な高級メロンの産地になっている。
中新田の弁財天川に1929(昭和4)に完成した「昭和水門」の橋梁新設記念として作られた。 「押し寄せる高潮に立ち向かい、郷土を 守る力の象徴」として南向きに建てられたが、1966年の昭和水門新設に より北向きとなっている。
幕末から大正時代にかけて修験道が盛んな土地で、庄屋など地域の有力者の中には大峯山で山岳修行を積み、先達という位を得   て地域で活躍するものが誕生し、多いときには浅羽三十三ヵ村で百人の先達がいた。湊の行者堂は慶応元年(1865)に湊の大先達   の鈴木伝七が、大峯山中小笹宿に祀られている尊像と同じものを造らせ、大峯山になぞらえた小山を造り、祀ったことから 始まる。
    
鳥居が建っているが、神社ではなく修験道のお堂である。行者堂の脇に立つ顕彰碑によって詳しいいきさつを知ることができる。
湊浜製塩所跡
15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上したのち、生活の糧を失った旧幕
臣たちを支える事業として明治3年(1870)に製塩局を置き200人程が湊
村の浜辺に移住した。ここには瓦葺の建物が14棟、他に役所、道場、筆学
校(学校)、商所、鍛治場等も置かれ、大変が賑わいを呈したという。しかし、
この土地は雨が多く、製塩には適していなかったため明治5年に廃止となり、
住人は離散していった。
唐船の漂着
寛政12年(1800) 12月のこと、湊の前浜に中国南京を出向し長崎へ向かった清国の商船が漂着したが、当時は外国との 交流は長崎を除いて認められておらず、想像を絶する騒動となった。厳重な警戒のもと乗組員は太郎助村庄屋屋敷・新福寺 ・大島村大安寺に収容、荷物は湊の万福寺・長江庵に保管された。3ヵ月後、乗組員の帰国が決定され、太郎助村を出立した 一行は福田湊から下田・伊勢・瀬戸内海を経て長崎に到着した。この間2ヶ月を要する航海であった。    
     
風宮さま
東同笠に鎮座する。安政3年(1856)阿部家の先祖が伊勢の山田から勧請し、 一旦阿部家のオカグラに納めそれから村で現在地に祀るようになったという。
  
1990年(平成2)
竹下内閣の「ふるさとの創生事業」として1億円により当時の浅羽町営グランドの一角に建設された。
  

【説・図は「浅羽風土記」「浅羽町史」「あさば誕生50周年記念誌」から引用】