__________ 歌の喫茶室 __________
葉月/お客さま 斉藤斎藤さんの感想
船虫の無数の足が一斉に動きて船虫のからだを運ぶ
なにかものすごいものを見たときに、わたしたちはじぶんの足が2本だということをしばしば忘れる。この歌の作中主体もそうだ。船虫の無数の足が船虫のからだを運んでゆくのに出くわし言葉をうしなうわたしは顔そのものになっていて、わたしの顔はわたしの二本の足から切り離され、空中にぽっかり浮かんである。ややあって我に返ると、わたしの顔から首が生え、胴体から二本の足が伸び交互に動いてわたしの顔を運んでゆく。
わたしの手足がわたしであるということをわたしたちはふつう疑わないが、なにかに夢中になって見るとき、わたしの手足はわたしのものか。わたしの顔とわたしの足がひとつのわたしに属すると、そうなめらかに言えはしない、そういう午後がたしかにある。
結局は一人ぼっちのボクだから顔ぶら下げてそのままに行け
奥村晃作
―――1972年生 / 歌集に『渡辺のわたし』。―――
斉藤斎藤さんのホームページ「私にはその価値があるから」
は下記からどうぞ。
http://saitousaitou.hp.infoseek.co.jp/
__マスター/okumura __________
わたしの眼の前をトラックが通過する。トラックの荷台にはピアノが包装し、結わえ付けられてある。運ぶ主体( トラック )と運ばれる客体( ピアノ )とはそれぞれ個別の存在である。
運ぶ主体である舟虫の足と運ばれる客体としての舟虫の体とは個別の存在である。
空中を浮遊するがの顔( 運ばれる客体 )とそれを運んでいる首から下の身体とはそれぞれ個別の存在である。
「そういう午後がたしかにある」と斉藤斎藤さんは斉藤斎藤さんの読みを展開された。シュールな読みだが、これこそ現実的な読みであり、作者の奥村は頭を抱えた末に、結局のところ納得した次第である。
これ( 奥村の歌の詠み )はフツーの詠みではないとかつて青柳秀忠氏が喝破した。
フツーの人は対象を〈 描写 〉するのだが、奥村晃作の詠法は〈 描写 〉ではなく、〈 観察 〉であるとして、舟虫の歌について以下の如きコメントを記された。
普通に詠めば
舟虫の無数の足が一斉にうごきて朽ち木の上走り去る のようになるだろう。しかし、それでは単に描写しているに過ぎず、「 観察 」になってはいない。舟虫の無数の足が一斉に動くと、その結果、足の上に乗っている舟虫の体が運ばれる事を観察し、心が動かされたのだ。対象はあくまでも舟虫であり、舟虫から焦点が外れる事はない。それが「 観察 」による記述である。
奥村は青柳氏の読みにも納得し、うーんなるほどなあと思う。
奥村晃作 / 歌人